二輪の花

 空は雲ひとつなく晴れていた。
 日差しはやや強いが、穏やかな風に吹かれているとそれも苦にならない。少し白みがかった青空は、春から夏へと移り変わりつつある季節を静かに語る。
 新緑に包まれた小さな道を、雪之丞は歩いていた。
 脇には透き通る水が流れる小川があり、そのせせらぎは都会の喧噪に疲れた心を癒してくれる。
 東京から遠く離れた、とある田舎の道。
 舗装されていない道は、歩くたびにさく、さく、と心地よい音を響かせる。後ろから彼を呼ぶ声が聞こえ、雪之丞は足を止めて振り返る。
 ずいぶんと遅れて、ワンピース姿の少女が後から付いてきていた。
 彼女を待つ間、何となく景色を見つめていた雪之丞の目にあるものが映る。
 白い花が、ゆれていた。
 寄り添うように二本の花柄を伸ばし、その頂点にひとつずつ小さな花を咲かせて。
 そよ風に吹かれて、ゆらゆら、ゆらゆら……

 これは、何という花なのだろうか。
 今まで花の名前など気にしたこともなかったが、ふとそんなことを思う。普段なら単なる野草として気にも留めなかったはずだが。
 この場所と思い出がそうさせるのだろうかと、雪之丞は思う。

「もう、待ってって言ってるのにどんどん先に行くんだから!」
「お前の歩くのが遅いだけだろ? 大体なんでサンダルなんて履いてくるんだ」
「こんな場所に来るって知ってたら履いてこなかったわよ。一体この先に何があるって言うの?」
「付けばわかる。それよりもう遅れるなよ、かおり」
「まったく……いつも勝手なんだから」

 伊達雪之丞と弓かおりが付き合いだしてから、それなりの時間が経っていた。
 些細なことでしょっちゅうケンカにもなるが、それでも関係が続いているのはお互いに相手のことを認め合い、理解し合っているからだろう。
 そんなある日、突然雪之丞から電話があった。その内容は「少し遠出をするが、一緒に来るか?」という、単純かつ大雑把なものだった。
 雪之丞が遠出をするのは別にめずらしいことではなく、ある日急に姿が見えなくなったと思ったら、沖縄にある無人島にいたなんて事もザラであった。
 彼曰く「修行のため」だと言うのだが、突然いなくなられた方はたまったものではない。
 普段は自分の行き先もロクに告げない彼がそんな提案をしてきたのだから、かおりとしては断ることなどできるはずもない。それに、ちょっとだけ嬉しかった。だから、彼の勝手な言い分にも目をつぶって後をついて行くことにした。

 やがて雑木林を通り抜け、両側を山の斜面に挟まれた場所に出た。
 小川のほとりには木造の古い家が一軒だけあり、周囲には小さな畑が作られている。
 雪之丞はその家に向かって行き、玄関を軽く叩く。
 しばらくすると深いしわを刻んだ老婆が顔を出し「ようきなすった」としきりに頷いていた。
 雪之丞が二言、三言話しかけると、老婆は家の奥から木桶と柄杓、そして山野から摘んできたであろう花束を雪之丞に手渡した。

「行くぞ」
「行くって、それ……」

 誰が見ても墓参りのそれだとわかる。
 様々な疑問が湧き上がってきたものの、いつになく真面目な表情の雪之丞を見て、かおりはとりあえず黙って後をついて行った。
 古い家の裏手に回ってすぐの所に小高い丘があり、そこにひとつだけ墓石が立っていた。
 その石は風雨にさらされて文字が読めなくなっていたが、周囲は綺麗に掃除され、きちんと手入れされていることがうかがえた。

「ねぇ、このお墓は?」
「ママの墓だ」
「えっ」
「さっきの婆さんは、体の弱かったママが生前世話になってた人なんだ。俺はほとんど憶えちゃいねーが、生まれてすぐの頃はこの村で暮らしてたそうだ」

 かおりは初耳だった。
 というのも、雪之丞は自分の家族について語ったことが一度もなく、何度かそういう話を振っても、そのたびはぐらかされてまともな答えを聞くことが出来なかったのである。

「ママは俺を産んで何年か後に、死んじまったんだ」
「そうだったの」
「少し話をするが、聞いてくれるか?」
「……うん」

 そして、雪之丞は静かに語り始めた。




 俺は小学校に上がる頃には、施設で暮らしていた。
 どこで生まれて、どうしてここにいるのかほとんど憶えていない。
 だだひとつわかっていたのは、温かくて優しいママのおぼろげな記憶と、今はその人がいないということだけだった。
 小学校に上がると、親無しの俺は真っ先にいじめられた。
 毎日からかわれ、罵声を浴びせられ、石を投げられた。だが、それで大人しく黙ってる俺じゃない。いじめる奴らと徹底的にケンカを繰り返しているうちに、とうとう誰も俺のことをいじめなくなり、それどころか、いじめてきた奴が子分になって、後ろをついてくるようになった。
 その時俺は思ったのさ「強ければ誰も俺をバカにしない。力があれば何でもできる」と。
 それからの俺は毎日ケンカに明け暮れ、上級生のグループとケンカしたり、近所の金持ちのボンボンから取り上げたミニ四駆で遊んだり、好き放題やってた。
 だが、心はいつも満たされていなかった。
 中学に上がる頃には有名なケンカ小僧としてその名を轟かせていたが、いつも俺は孤独だった。確かに強くなって、周りの奴らは俺のことを恐れ、遠巻きに見ながらペコペコと頭を下げるようになって。
 しかし、俺には本当の友達といえるような仲間がいない。

(――強くなったはずなのに、なぜなんだ)

 ますます俺のイライラは募り、満たされない心の隙間に、冷たい風が吹き荒ぶ。そんなある日、いつも金魚のフンみたいについて回ってる奴らが話をしているのを偶然聞いた。

「――正直さ、雪之丞ってうざくねーか?」
「言えてる。ケンカが強いってだけで王様気取りだもんな」
「すぐ怒るし物は取ってくし、奴がいなけりゃって何度思ったか」
「そーそー、マジで消えて欲しいよな」
「親もいねーんだし、アイツが死んだところで誰も困らねーじゃん」
「むしろみんな喜ぶんじゃね?」
「ひでーなお前。でもその通りかも。ぎゃはははははははは!」

 正直、どん底に突き落とされた気分だった。
 俺は力で、自分の居場所を手に入れたはず。
 だが、そう思っていたのは俺だけで、本当はこの世界に俺の居場所なんてどこにもなくなっていたんだ。
 誰にも必要とされない。誰も俺がいる事を望んでいない。誰も――
 絶望に打ちのめされた俺はわけもわからずフラフラと歩き、そして道路に飛び出したところをトラックにはねられたんだ。




 意識が戻ったとき、そこは病院のベッドの上だった。
 傍には施設の園長先生がいて、俺を心配そうに見ていてくれた。
 少し老けた丸顔のおばちゃんが、唯一俺のオフクロ代わりの人だった。

「おはよう、気分はどう? 君はトラックにはねられたのよ。憶えてないかしら?」
「……園長先生」
「なに?」
「どうして……どうして俺は生きてるんだ」
「え?」
「みんな俺がいると迷惑なんだろ? 死んだ方がいいって思ってるんだろ!?」
「どうしたの? 何かあったの?」
「誰にも望まれないのなら、最初から生まれてこなけりゃよかった!」

 自棄になって叫んだ俺の頬を、園長先生の手が張り飛ばす。

「よく聞きなさい。あなたは望まれない子なんかじゃありません。あなたは愛され、その命を祝福されてこの世に生まれたのですよ」
「なんでそんなことがわかんだよ……俺には親がいねぇんだぞ。愛してたって言うんなら、何で俺を捨てたんだ!」
「今日は君の誕生日でしたね……君が十五歳になったとき渡して欲しいと預かっている物があります」

 園長先生はそう言い、鞄の中から古びた封筒を取り出した。

「あなたの……お母さんからの手紙です」
「俺の――ママ?」

 封筒の中には手紙と、写真が一枚。
 その写真には若くて綺麗な女性と、生まれたばかりの赤ん坊の姿が写っている。

「これが……俺のママなのか?」

 その女性は赤ん坊を抱きかかえ、本当に幸せそうな顔で笑っている。

 俺はとりあえず写真を置き、折りたたまれていた手紙を広げた。




 〜愛する雪之丞へ〜

 あなたがこの手紙を読んでいる頃、私はもうすでにこの世にはいないでしょう。
 私の体は病に冒され、あまり長く生きられないと宣告されました。
 でもそのとき、私のお腹にはあなたがいたのです。
 あなたを産めばただでさえ短い寿命がさらに縮まると言われ、周囲の人は皆反対しました。
 ですが、私は産むことにしました。
 私とあなたのパパが出会い、確かに愛し合った証として――そして、亡くなってしまったパパや、私の分まで生きて幸せになって欲しいから。
 きっとあなたは私がいないことで辛い思いをしているでしょう。今あなたのそばにいてあげられなくて本当にごめんなさい。
 あなたが大きくなった姿を見たかったけど、私にはもう時間が残されていないの。
 今、私が手紙を書いているすぐそばであなたが寝ています。小さな寝息を立てて、本当に可愛いのよ。この瞬間のためだけにも、あなたを産んだ事が間違っていなかったと信じます。
 十五歳になったのなら、もう一人で歩き出せるはずです。
 自分の生き方を見つけて、どんな困難なことがあっても負けずに強く生きてください。あなたは私の全て。あなたが生きて、幸せになってくれることだけが私の望みなのですから。
 最後に――あなたを産んで、本当に幸せでした。生まれてくれてありがとう、雪之丞。





 そこで手紙は終わっていた。
 遙かな記憶の中に、確かにママの声が聞こえてくる。
 俺はひとりぼっちじゃなかった。
 命をかけて俺を愛してくれた人がいた。
 例え今は一人でも、その事実が俺を絶望の淵から救ってくれた。
 もう一度写真を手に取ったとき、俺の記憶の奥底に眠っていたママの笑顔が蘇る。

(ありがとう雪ちゃん。私、あなたを産んでよかった)

 涙が溢れて止まらなかった。
 俺は泣いて、そしてママに誓ったんだ。強くなるってな。
 そして、ママの分まで生きてやるんだってな。




「――中学を卒業して、しばらく街をうろついていたとき霊的格闘技の道場『白龍会』にスカウトされて、俺はGSの道に進むことになったんだ。で、それから色々あって今に至るわけだ」

 黙ったまま話を聞いているかおりを見て、雪之丞は自分の世界に入りすぎていたことを感じた。

「あ、すまねぇな……つまんねー話を長々としちまって」
「そんなことがあったなんて」

 声を詰まらせるかおりを見ると、彼女は口元を抑えて涙を流していた。

「バ、バカ、なんでお前が泣くんだよ」

 予想外の反応に雪之丞は思わずうろたえてしまう。

「だって、そんな話聞かされたら誰だって……っ」

 かおりは雪之丞の胸に顔を埋め、嗚咽を繰り返していた。
 雪之丞は顔を赤くしながらもそっと背中を抱いてやり、気が済むまでそうさせていた。
 しばらくして落ち着いたかおりに、雪之丞は花束の半分を手渡す。

「供えてやってくれねーか。きっとママも喜ぶ」
「ええ」

 かおりは花を供え、墓石に水をかけると線香に火を付ける。
 目を伏せ、手をあわせて祈った。
 祈りを終えた後、ふとかおりが雪之丞に尋ねた。

「ねぇ、どうして私をここへ呼んだの?」
「あ、え、っと。お前をママに紹介したかったんだ」
「そうね、私もお母様に会えて嬉しいわ」
「この話は誰にも言うなよ。お前だけにしか話してないんだからな」

 お前だけに――この言葉が、何よりかおりは嬉しかった。
 一見がさつで身勝手な彼が、自分に心を開いてくれている幸せ。
 そんな満ち足りた気持ちを感じながら、かおりはわざといたずらっぽく笑ってみせる。

「ふふふ、さあ、どうしようかしらね? あなたも結構可愛いところあるじゃない」
「なっ!?」

 かおりは動揺する雪之丞の鼻先をちょん、とつつくと「冗談よ」と笑う。

「ちっ、やっぱ黙ってりゃよかったか」

 ムッとする雪之丞のそばで、かおりはふと遠くを見つめて呟いた。

「でも、私達、お母様の分まで長生きしないとね」
「ああ、俺達ふたりで、な」
「え……?」

 雪之丞はかああ〜っ、と顔を赤くし、ぶっきらぼうにもう一度答えた。

「だから……ずっと一緒に生きてやろうってことだよ!」

 その言葉が何を意味しているのか、かおりにはすぐにわかった。
 不器用な彼なりの、精一杯のプロポーズ。
 きっと自分達のことを、天国のお母様に祝福して欲しかったのだろう。

「……うん、一緒に生きましょう」

 緑の丘の上で、雪之丞とかおりの影が重なる。
 その足元には小さな白い花が揺れていた。

 ニリンソウ。

 寄り添うように花を咲かせるその野草は、決して離れることなく風に揺らいでいた。