この時を忘れない

 下校のチャイムはとうに過ぎ、学校に残っている生徒の数もごくわずか。
 日は西に沈みかけ、家路につく生徒達は朱の光に照らされ、その影は長く長く伸びて地面に貼り付いている。
 教室の窓から目をやれば、運動部員達が器具をを片付けたり、グラウンドにトンボを引いたり。
 せわしなく動き回った後は、みんなが同じ方向へ歩いて行く。
 それぞれの、帰るべき処へ。
 走って帰る人。
 おしゃべりしながら歩いている人。
 別れた友達に手を振っている人。
 手をつないで、微笑みあっている人たちもいる。
 私はいつも、そんな彼らをじっと見送っている。
 私は教室から外へ向かうことはない。
 たとえどこかへ出かけたとしても、必ずここへ帰ってくる。
 なぜなら――私の家はここだから。
 私は学校で産まれた机の妖怪。
 最後の生徒がいなくなるまで、生徒の帰りを見送り続ける。それが私の日課。
 生まれてからずっと続けてきた私の日課。
 だけど、誰もいなくなった後、時々たまらない気持ちになってしまう。
 
 がらっ。

 いつものように窓の外を見つめていると、誰かが教室のドアを開けたて中に入ってくる。イタリアからやってきた、学校でも有名人な、金髪のクラスメイト。本当は気の優しいバンパイア・ハーフなピート君。

「やあ、愛子さん。ちょっとノートを忘れてしまって」
「そう……」
「……?」

 生返事を返した私を不思議に思ったのか、ピート君は私の方へ近付いてくる。
 私は無言のまま、じっと夕焼けに染め上げられた校庭を見つめていた。
 ピート君は私の傍で足を止め、同じように窓の外を眺めた。
 しばらくの沈黙が続いた後、ピート君は私の方を向いて、優しく言った。

「どうして泣いているんだい」

 言われて私はハッとした。
 知らないうちに、涙が一筋だけ頬を伝い落ちていた。
 なぜなんだろう。自分でも、よくわからなかった。

「あ、ううん。なんでもないの。ただ、ふと考えてしまって」
「何を考えていたんだい?」
「……聞いてくれるの?」
「クラスメイトの悩みとあれば、聞かないわけにはいかないよ」

 そう言ってピート君はニコッと笑ってくれた。
 その笑顔に、ほんの少しだけ私はホッとしていた。

「別に悩みっていうんじゃないんだけど……そうね、ピート君にしか聞けないこと、聞いてみようかな」
「僕にしか聞けないこと?」
「私は机の妖怪。生まれてから結構な年月を過ごしてきたわ。ピート君はバンパイアハーフだけど、もう七百年も生きているんでしょ?」
「ああ」
「私達と人間とは生きる時間の流れが違うのよね……それを考えると、時々寂しくなってしまって。ピート君は、そういう事ってなかったの?」
「僕らの一族はなるべく人間と関わりを持たないようにしてたし――ずっと同じ仲間と暮らしていたから。人間の知り合いは、ほんのわずかしかいなかった」
「そう……」
「でもその気持ちは、少しはわかるつもりだよ」

 それから先は、言葉をうまくつなげられなくて、沈黙が続いてしまった。
 その沈黙を先に破ったのは、ピート君だった。

「僕は島を出て、本当によかったと思ってる。唐巣先生や美神さん、横島さんやエミさん――みんなが僕のことを受け入れてくれた。人間の天敵である吸血鬼の僕を。七百年生きてきた中で、今ほど充実している時はないよ」

 すこし興奮したように話すピート君は、本当に嬉しそうな顔で。
 そして私も、ようやく言葉が出てきた。

「私もそう。青春を味わいたくて騒ぎを起こしたのに、みんな私のことを同じ生徒として迎え入れてくれて……横島君も先生もクラスメイトもこの学校も、私はみんな大好き。だから哀しいの」
「……別れ、だね」
「いつかはみんなこの学校を卒業して、それぞれの道を歩いていくわ……でも、私はここに残ったまま。なんだか私だけ取り残されてしまいそうな気がして。このまま時間が過ぎなければいいのにって思ってしまうの。みんなでずっと一緒にいられたら、って。それは考えてはいけないことなのに」
「僕らは人間よりずっと長い時を生きていける。だから、そういう流れの中で物事を見てしまいがちだ。滅びることなくずっと一緒に――ずっとそばに――吸血鬼が人を噛んで仲間にしようとするのも、きっとそういう寂しさからなのかも知れないな」

 ピート君はじっと夕日を見つめ、憂いを含んだ顔で呟いた。
 私も同じだった。
 同じ思いから、生徒達を異世界に呑み込んで終わることのない学校ごっこを続けていた。
 楽しそうに学園生活を送る人たち。
 私もその中に入りたかった。
 そばにいて欲しかった。
 その気持ちは、今でも変わっていない。
 私は学校が、みんなが大好きだったから。

「別れが辛いことを知っていながら、なぜ僕らは人間に惹かれてしまうのか。その理由を考えたことはあるかい?」
「え……ううん」
「人の一生は短い。だから、今この瞬間を彼らは精一杯生きようとしている。スポーツに情熱を燃やしたり、将来のために勉強したり、誰かに恋したり――今しかできないこと、今しか感じることができないもののために人は生きている。だからこそ、その命はまぶしく輝いて見えるんだ――って、これは唐巣先生の受け売りなんだけどね」

 ピート君はそう言って、少し照れくさそうに笑った。

「確かに別れは辛い。でも、そこで全てがなくなってしまうわけではないんだ。共に過ごした時間、共に分かち合った気持ちはいつまでも心に残る。時が経って、遠く離れていても、目をつぶればいつだってその頃に戻ることができるんだ。だから、僕たちも見習わなくちゃならない。今を大切に生きる、その素晴らしい生き方を」

 ピート君の言葉は温かく、確かな自信に満ちていた。
 彼はもう、ずっと前に答えを見つけていたのだ。

 今を大切に。今しかできないこと、今しか感じられないこと。
 そのために精一杯生きる――

 心に覆い被さっていた重い影はいつの間にか消えて無くなり、一陣の風が吹き抜けていく――そんな気がした。

「……ピート君の言う通りよね。先のことでくよくよするよりも、今を目一杯楽しまなきゃ。それが青春よっ!」
「そう、それが青春だよ。ようやく愛子さんらしさが戻ってきたね」
「なんだかこう、燃えてきたわっ。ありがとうピート君」
「はは、どういたしまして」
「ああ……これこそ青春だわっ」

 ピート君の気遣いが嬉しくて、そしてちょっと恥ずかしくて大げさに声を出す。
 そんな私を見て、ピート君も嬉しそうに笑う。
 ――本当に優しいのよね、ピート君は。
 七百年も生きている貫禄っていうのかな。
 私にとっては、同じ時間を過ごしている数少ない大切な『仲間』
 いつか遠い未来、今のことを思い返すときに同じ思い出を持つ人がいるのはすごく嬉しい。

「それじゃあ、そろそろ僕は帰るよ」

 ピート君は机からノートを取り出し、教室のドアへと足を運ぶ。

「ピート君」

 最後に言い忘れたことを思い出し、彼を呼び止める。

「ん、どうしたんだい?」
「私達、今この学校で過ごした仲間達のこと……ずっと憶えていましょうね」
「忘れられるはずがないさ」
「そうよね……それじゃ、おやすみピート君」
「おやすみ。じゃあまた明日」



 そして私は眠りにつく。
 明日も同じように学校が始まり、終わって、また生徒を見送る。
 私はこれから、いろんな事を目一杯楽しんでみよう。
 そしてできる限り、この目で見たもの、感じたことを憶えていよう。
 この素晴らしい時を忘れない限り、私達の青春は永遠なのだから――