終わりと始まりの狭間に

 アシュタロス事件が収束した直後の、その傷跡がまだ癒えぬ頃。
 妙神山では仮の住居が建てられ、小竜姫を始めとする住人達はそこに身を寄せていた。
 その中にはアシュタロスの元部下であるベスパとパピリオの姿も。
 ベスパは先の戦闘で受けた傷が完全に癒えておらず、大事を取って数日ほど床に伏せていた。
 その間にも事後処理のために尋問などが続き、ベスパは次第に口数と感情の変化が少なくなっていった。
 その日も小竜姫や仲間の神族達がベスパの部屋を訪れていた。
 今回は尋問ではなく、彼女の今後の身の振り方について希望を聞くためだった。
 しかし、ベスパは身体を起こしても黙って外の景色を眺めるばかりで、何も答えようとしない。

「返事ぐらいしたらどうなんだてめぇ。ずっと黙ってたんじゃ話が進まねぇだろうが!」

 ベスパの部屋から、粗野な男の怒声が響く。
 その声の主、龍神族のヤームは額に血管を浮かび上がらせ、今にも殴りかからんとする形相であった。
 興奮するヤームを子分のイームが押さえ、その横で小竜姫が口を開く。

「あなた達はアシュタロスの支配から解かれ自由となりました。ですが、これだけの事件を起こした手前、あなたやパピリオを快く思わない連中がいるのも確かです。身の安全のためにも、当分はどこかの組織に所属していた方がいいでしょう。もちろん、パピリオと同じようにここに残ってもらっても構いませんよ。焦る必要はありませんから、じっくりと考えてあなたの意見を聞かせてください」

 ベスパは視線を合わそうともせず、表情を固めたまま何も答えない。 今は返事を待っても無駄だと悟ると、小竜姫達は部屋を出て行った。
 パピリオが心配そうに自分を見ている。その頭に手を置いて「心配ないよ」と告げると、ベスパは身体を横たえて目を閉じる――




 夜空が広がり、煌々と燃える巨大な灼熱の玉がゆっくりと沈んでいく。
 自分はそれを、じっと見つめることしかできない。
 沈みゆく炎の中にゆらめく人影。
 美しく、そして儚く、哀しいその姿。
 掻きむしりたくなるような辛さに耐えかね、声にならない声で叫ぶ。
 胸の奥が引き裂かれんばかりの哀しみだけが、全身を貫いていた。

 そんなになって……それほど死が望みなのですか――!?




「――ッ!」

 息を荒げながらベスパは飛び起きた。
 周囲は夜の闇に包まれ、静寂だけが広がっている。
 じっとりと嫌な汗が滲んで、シャツが貼り付いている。ベスパはパジャマの胸元を少し開き、額の汗を袖で拭う。
 すぐ隣には、妹が健やかな表情で寝息を立てていた。

(また同じ夢を……)

 障子を開け縁側に出ると、涼やかな風が頬をなでていく。
 空を見上げると、光の粒が散りばめられた満点の星空が広がっていた。
 それをじっと見つめていると、キシ、と床板を踏む音が聞こえた。

「眠れないのか?」

 暗がりの向こうから現れたのは銀髪の青年魔族――正規軍情報士官のジークフリード。
 仲間の魔族や彼の姉、妙神山の神族からはジークという愛称で呼ばれている。
 つい数日前までは、敵と味方に分かれて戦っていた相手だが、今は彼の監視下にある。
 ジークは礼儀正しく親切に接してくれたが、まだ打ち解けて話す気にはなれずにいた。
 少々ここに居づらくなった。かといって部屋に引き返す気にもなれず、ベスパはジークを無視してその場に佇んでいた。
 何も答えず夜空を見つめるベスパと同じように、ジークもまた無言のまま星空を見上げる。
 しばしの沈黙の後、夜空を見上げたままジークが口を開く。

「もし自分の行く先を決めかねているなら、軍に入ってみないか? お前のように優秀な戦士が入隊してくれるとありがたい。先の事件のおかげで、魔界も混乱している」

 軍への誘いというのは様々な意味で魅力的な話であったが、今のベスパにとってはただの雑音にしか聞こえない。
 今はただ、静かに空を見ていたかった。

「悪いけど、一人にして欲しい」
「そうか……邪魔をしてすまなかった。だが、いつまでもこのまま、というわけにもいかないだろう。もし答えを見いだせずにいるなら、自分の本当の気持ちに耳を傾けてみるといい。パピリオが言っていたよ……どこかお前は無理をしているんじゃないか、とな」
「……!!」

 パピリオからの言葉を残し、ジークは再び闇の向こうへ姿を消す。
 ベスパは、妹の鋭さにため息をついた。
 縁側に腰を下ろし、再び星空を見上げてみる。

(自分の、本当の気持ち……か)

 ベスパはジークの言葉を反芻し、考えてみた。
 創造主であり、父であり、愛する人であったアシュタロス。
 彼の真の望みが滅びであると知ったとき、言いようも無いほど哀しかった。
 それでも自分は彼に忠実に付き従った。
 それが、アシュタロスへの唯一の愛情であると思ったから。
 全てが終わり、とうとうアシュタロスはその望みを叶えた。
 これでよかった――そう納得し、自分に言い聞かせた。
 だが、その後には虚しさしか残らなかった。
 大切なものが胸の中から抜け落ち、ぽっかりと穴が開いたような――
 これからどうしたらいいのか、何のために生きていけばいいのか。

(わからない……アシュ様、姉さん……私は――」

 涙が頬を伝う。
 今まで押さえ込んでいた、愛する人と家族を失った哀しみが心を包み込んでいく。
 ここには誰もいない。なら、ほんの少しだけ素直になってみても良いだろうか。自分自身に――
 止めどなく溢れる感情に、ベスパは身を委ねてみることにした。
 月明かりと星空だけが、優しさ故に押し止められてきた涙を照らす。

 どれくらい時が経ったのか。
 哀しみという雨が通り過ぎた後、沈み淀んだ気分は晴れていた。
 心の中で、涼やかな一陣の風が吹き抜けた。
 閉じていた世界が開き、星空の如き輝きを持ち始める――そんな気がしていた。
 今、ベスパには誰かのためではない、自分自身の進む道が見え始めていた。




「一晩考えてみたんだけど……私は軍に志願するよ」

 翌朝、食事のために集まった席でベスパは言った。
 一同はあっけにとられていたが、いち早く小竜姫が気を取り直して尋ねた。

「そうですか、安心しました。しかし、どんな心境の変化があったのかしら」
「私は元々荒事向きだし、そこの男に勧められたから、かな。今回の事件で魔界も状況が不安定になりつつあるみたいだし、せめてそれを食い止める手助けができればと思ってさ」
「じゃあ、もう一緒に暮らせないんでちゅね……」

 それを聞いたパピリオは、とても寂しそうにポツリと呟く。
 ベスパはパピリオの前にしゃがみ、くしゃっと頭をなでる。

「ずっと会えなくなるわけじゃないんだよ。時々会いに来るから、パピリオも頑張りな」
「ベスパちゃんも頑張ってくだちゃい」

 しっかりとパピリオを抱きしめた後、ベスパは立ち上がる。
 真っ直ぐに前を見つめた瞳に、ジークの姿を捉えて。

「それじゃ早速だけど、案内してもらうよ。えっと……なんて言うんだっけ、あんた」
「ジークフリード少尉だ。魔界では姉上の所で世話になるといい。では、行こう」
「小竜姫。パピリオのこと、頼んだよ――」

 ジークは魔界へのチャンネルを開き、ベスパと共にゲートの向こう側へと消えていく。

 力強く、美しき蜂の魔族ベスパ。
 道具として作られた彼女はその使命を果たし、今新たに『自分自身』としての生を歩み始めた。
 アシュタロスも、きっとそれを喜んでくれると信じながら。