ぬけがけ

 身体が急激に成長した時、心の成長も同時に――というわけにはいかなかった。
 最初の頃はただ単に尊敬できる師として横島を仰いでいた。が、ある時シロは気付いてしまう。自分の中に、師と弟子以上の感情が芽生えていることに。しかし、それをどう処理すればよいのか、未熟な人狼の娘にはまだ到底知り得ないことだった。
 年相応の、それが思春期に於ける恋慕の情であること。本来なら胸をときめかせるはずのそれは、今まで女らしい自分を意識していなかったシロに大きな波紋をもたらす。

 ふと気付けば、目で追ってしまう。
 いつもと変わらぬように接しているつもりが、何かの拍子――例えば腕を掴まれたり頭をなでられた時、思わず胸の奥からこみ上げる感覚に身を強張らせてしまう。けれどそれは不快なものではなく、もっと感じていたいとさえ思う。
 問題なのは、横島が別の女性と接している時だった。
 雇い主である美神令子に度重なるスキンシップ、つまりセクハラまがいの行為を繰り返し、おキヌの作る料理に舌鼓を打つ。
 楽しそうにしている横島の笑顔が胸を刺す。
 自分以外の誰かがその目に映っているのかと思うと、胸の奥がチリチリと焦がされるような熱く切ない感情がこみ上げてくる。
 初めて意識する女性としての自分。『拙者』ではなく『私』として認識する自分。心の成長と共に現れた『私』は、激情を伴ってシロの心を掻き乱していた。

 ――そっちを見ないで、私を。私だけを――

 ふと気付けば、知らないうちに暗い感情を他人に向けている。
 ガラスに映ったその時の顔を見た時。ひどく醜く、矮小に思えた。
 返しきれぬ恩がある人達に、無意識とはいえ悪意を向けてしまったことに戦慄した。

 どこまでも身勝手な、私、私、私。

 武士として、どこへ行っても恥じぬ振る舞いをせよとの教えを裏切った瞬間。何度抑えようとしても、その感情は鎌首をもたげてシロの心を苛んだ。
 令子には完璧な美貌とプロポーションが。
 おキヌには深い優しさと慎みが。
 タマモですら人と良好に関係を維持する要領の良さがある。
 そんな同居人達が眩しく思えて。自分だけが小さくて。もう耐えられなかった。
 純粋であるがゆえの、誰にも打ち明けられぬ苦しさ。
 ――きっと、こんな自分を知られたら嫌われてしまう。先生にも愛想を尽かされてしまうかも知れない。
 冬の、冷たい雨が降る夜。シロは誰にも、何も告げぬまま事務所から姿を消した。

 体の芯まで凍えてしまいそうな寒い夜だった。
 それとはまだ知らなかった、恋の終わりを告げる冷たい雨に打たれて、力なくシロは彷徨い続けた。頬を伝う雫と共に、熱いものが止めどなく流れ落ちていく。
 どれだけ歩いたのか、気が付けば煌びやかな街のネオン。あふれかえる人の波。それなのに、自分は一人ぼっち。孤独と惨めさがこれ以上足を進めてはくれなかった。

 ――このまま極彩色の光の中に溶けてしまいたい。

 シロは足を止め、寄りかかるように電柱に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。

 降り止まない雨が冷たくて――

 小さな肩を抱いて震えるシロの脳裏には、何より暖かい『あの場所』の記憶が呼び戻されていた。
 自分を呼ぶ声。笑顔の絶えない場所。大切な――慕う人のいた場所。手放してしまった楽園は、ひどく遠くに感じられて。

「……せんせぇ……寒い……」




 目に映る全てが空虚に見える。目の前を通り過ぎていく人々には、こんな自分の姿など見えていないんだろう。
 孤独に押し潰されそうになっていたその時、どこからか名を呼ぶ声が聞こえる。
 忘れられない声。やさしい人の声。
 途切れかけた意識を突然、暖かく、そして力強いものが包み込んだ。

「やっと見つけた。心配させやがって……いきなり消えるなよ、このバカ」
「あは……見つかっちゃったでござる……やっぱり先生って」

 望んではいけないと思っていた。でも、本当は一番会いたかった。
 こんな時、やっぱり真っ先に見つけてくれるから。
 だから。
 だから私は――
 こみ上げてくる言い切れない感情と雨でぐしゅぐしゅの顔。
 見られたくなくて、ゴシゴシと手で顔を何度もぬぐっていた。

「まったく、こんなにずぶ濡れになっちまって」

 傘の中に誘い肩を抱くようにシロを立たせた横島は、その身体のあまりの冷たさに驚いた。彼女は人狼だろうが、このまま放っておいたら倒れてしまうかも知れない。
 どこか暖かい場所で休ませたいが、事務所まではだいぶ離れている。
 舌打ちしながら周囲を見れば、そこはピンク色のホテルがズラリと並ぶ通りだった。天気予報ではもうじき雨は収まると言っていたけど、まだ降り止む気配はない。
 倫理的に凄まじく躊躇われるものがあったが、こんな状態の可愛い弟子を前にして四の五の言うほど横島は自分ができた男でないことを自覚していた。

(休憩なら……問題ないよな。そう、シロを休ませるだけだからなっ。他にはなーんもやましいことなんかないぞっ)

 横島はふらつくシロをしっかり抱きかかえながら、ホテルの中へと進んでいった。初めて訪れるホテル。本来の目的のためでないことに少し苦笑しながらも、シロをバスルームに押し込む。
 とりあえず身体を温めさせて、それからゆっくり事情を聞けばいい。ベッドに腰掛けて溜息をついていた横島は、いつのまにか聞こえてくるシャワーの音にドキドキしている自分に気付いてしまった。
 違う。そういう状況ではないというのに。さすがにこの時ばかりは煩悩を恨めしいと思わずにはいられなかった。

(もし。万が一。仮に。間違いが起こってしまったなら、俺は一生十字架を背負って生きていかなければならないのだッ)

 自分はそっちの世界の住人ではないと強く念じながらシロが出てくるのを待っていた。
 と、バスルームの方から呼ぶ声が聞こえる。

「あの、拙者の服濡れてしまって……着替えはどうすればよいでござろ?」

 失念していた。着替えなど用意しているわけがない。
 今使える物と言えば。
 仕方なく横島は自分のYシャツを脱ぎ差し出す。
 脱衣所のドアの向こうからシロの、うっすらピンク色に上気した腕が伸び、シャツを掴んで再び引っ込んだ。
 それからすぐにガチャリとドアノブが回され、湯気と共にシロがバスルームから出てきた。その格好を見た横島は、卒倒しそうになりながら叫ぶ。

「お、お前、何でシャツ一枚だけなんだぁぁぁッ!」
「だってパンツまでびしょびしょで、とても履いていられないでござるよ」
「天然なのかマジなのか……いやいや落ち着け。落ち着け俺。これしきのことでうろたえ――!」

 横島の目に飛び込んできたのは、シャツを手で押さえているだけでボタンすらかけていないシロ。幸か不幸か、シャツは腰下あたりまでを隠してくれていたが、素肌にYシャツだけの姿は話には聞いていたが、実物は想像を遙かに超える破壊力であった。横島は敗北しそうな理性を必死に立て直し、飛びかかってしまいそうな衝動を押し殺すに必死だった。



 乾ききっていない濡れた髪。わずか布一枚に包んだ身体。こんな格好を見せたのは、きっと初めての事。薄暗い部屋の照明。身体が火照っているのは、シャワーだけが理由じゃない気がする。
 目の前に立つ人は少し落ち着かない様子で、それでも身体が暖まったようでよかったと言ってくれた。
 きっと――全てを知っても。この人は受け止めてくれる。そう思える何かを、確かに感じていた。
 シロは意を決し、突然出て行った理由を横島に打ち明けた。ただ、恋慕の情については隠したままだったけれど。
 話し終えるまで黙って聞いていた横島は、おもむろにその右手を振り上げた。
 思わず目をつぶってしまう。でも、自分はそれだけのことをしてしまったのだから仕方がない、とも思う。小さな子犬のように身をすくめていた彼女に触れたのは、優しく大きな手だった。
 少しだけ乱暴にくしゃくしゃと頭を撫で、ぽんぽんと軽く叩かれた。あやすように。安心していいんだと教えるように。

「まったく……ヤキモチなんて今までさんざんしてきただろ?」
「先生……」
「真面目すぎるんだよお前。そういうのは誰だってなるんだから、あんまり深く考えすぎるなって」
「でも、あんな気持ちを持ってしまった自分が許せなくて」
「正直な、いなくなられるよりヤキモチ焼かれてる方がよっぽどマシなんだよ。わかったら今後勝手に俺達の前から消えるんじゃないぞ。いいな?」
「は、はいっ」

 嬉しかった。
 できればこの場で全てを打ち明け飛び込んでしまいたかった。
 でも、こんな状況で勢いに任せるのはフェアじゃない。
 私の家族。仲間。同居人。そして、今日からはライバルも付け足そう。今はまだ敵わなくても、もっともっと魅力的になって、いつか先生がほっとけないレディになればいい。
 そう決めた途端、なぜだかみんなと早く会いたい。謝って、もっといろんな事を話したいと、そう思った。

 でも……ちょっとだけ。ほんの少しだけ、ぬけがけ。

 少しズルいと思いつつも、シロはシャツの前部分から手を離しシャツをはだけさせる。自分でも驚くほど大胆な行為に頬を赤らめながらも、精一杯の気持ちを込めて上目遣いで呟いた。

「先生……大好……き……でござる」

 眼前でその仕草を直撃させられた横島は数秒間固まり、そして噴水のように真っ赤な液体を噴いて昏倒してしまった。
 いつの間にか雨は止み、途切れた雲の隙間から煌めく星空。
 冷たい雨に打たれて、群衆に紛れ込んでいても。
 探してくれる人がいる。見つけてくれる人がいる。
 それがあったかくて。嬉しくて。
 いつでも思い出せるように、このシャツは返さないでおこうかな。

 これも、ぬけがけ?