温かい雪

 冬も終わりを迎えようとしていた頃、唐巣和宏の元に一本の電話が入る。
 北海道からの、奇妙な縁を感じさせる仕事の依頼だった。
 それを快く承諾した唐巣は弟子のピートを連れ、現地へと向かう。
 去年の暮れから今年にかけて、この冬は日本各地が記録的な大雪に見舞われていた。
 しんしんと降り積もる雪は、無垢な花嫁の衣装にも似て。
 穢れなき白で、それは全てを覆い隠していく。
 この日の北海道は、まれに見る大雪の日であった。
 北の大地は身を切るように寒く、そして静かに雪が降り続けていた――




 唐巣とピートは、北海道の奥深い小さな村を訪れていた。
 二人にとって、ここに足を運んだのは二度目のこと。
 かつて、この村で彼らは人々を凍死させる恐ろしい雪女と対決した。
 その時は不覚にも敗北してしまったが、美神令子が見事に雪女を退治し、事件は解決したはずだった。
 ところがこの冬に入ってから、その雪女が再び姿を現したというのである。
 村役場の中で、依頼人である村の代表と業務用の大きなストーブを挟んで唐巣とピートは話し込んでいた。
 照明の光をキラリと反射する代表の禿げた頭を見ると、親近感や焦りが入り混じった複雑な感情が唐巣の脳裏をかすめるが、今は仕事の話をしているのだと素早く雑念を振り払い、依頼の内容に意識を傾ける。

「――そうですか。彼女が戻ってきてしまったのですか」
「ええ。村の男達が何度もその姿を見たと言っとります」
「それにしても、こんなに早く蘇ってしまうとは。何が原因なのだろうか」
「わしには詳しいことはわかりませんが……ただ、何か以前と違うというか、様子が変なんだそうです」
「というと?」
「姿を見せても遠くからじっと見ているだけで、近付いては来ないのだそうです。今のところ被害は出ておりませんが、村の者も気味悪がっておりまして。どうかよろしゅうお願いします」
「わかりました、全力を尽くしましょう。それから、ひとつ質問が」
「なんでございますかな?」
「なぜ私にこの依頼を? 恥ずかしながら、前回事件を解決した美神君に頼む方が確実だったのでは」
「わしらもそう思って、最初は美神さんに仕事を依頼したんですよ。そしたら――」




『特に被害は出てないんでしょう? 様子を調べるためだけに、冬の北海道に行くというのもねぇ……代わりに、そーゆーキツくてギャラの安い仕事を喜んで引き受ける人を紹介しますわ』




「――と言われまして」
(み、美神君……帰ったら説教だぞ!)

 額に井桁を貼り付けたまま、唐巣はピートを連れて雪女が現れるという場所へ向かった。
 人里から離れた山間に辿り着くと、猛烈な吹雪が襲いかかる。
 旭川育ちである唐巣は多少の寒さに免疫はあるし、防寒着もしっかりと着込んできた。
 それでも、叩きつける冷気は手足の先や顔面を凍り付かせ、容赦なく体温を奪う。
 二人は協力してかまくらを作り上げると、携帯コンロで温めたスープを口にしながら彼女が現れるのを待つことにした。
 勢いの衰えぬ吹雪と共に時間は静かに過ぎ、やがてあたりは闇に包まれていく。

「――で、ピート君。本当にこれで彼女は現れるのかい?」
「先生はご存じないかも知れませんが、前回もこうやっておびき寄せたんですよ。雪と氷のプロなら、あれを見てじっとしていられませんよっ!」
「そ、そうかね……」

 力強く語るピートと唐巣の視線の先には、この場にそぐわぬ事この上ない物体が置かれている。
 一面の銀世界の中に、ぽつんと佇む氷のデザート。
 そう、例によって名水を使い最高の技術で作られた氷に、本物の材料と名人の技で仕上げたシロップが使われているかき氷だ。
 ちなみに今回は宇治金時らしい。
 唐巣がそそくさと眼鏡の霜を拭いていると、外から歓喜の声が聞こえてきた。

「サラリと溶ける口当たりに、コクがありながらしつこくないこの甘さ……さぞかし名のある逸品と見たわ!」
「ほ、ホントに現れた」
「出たな雪女!」

 ピートはかまくらの外へ飛び出し、吹雪の中でかき氷に舌鼓を打つ女性の前に飛び出す。

「貴様、何の未練があってこの世に舞い戻った!?」

 敵意を隠しもせず、半ば脅しをかけるような口調でピートは問う。
 目の前にいる雪の妖怪は、かつて敗北を喫した相手。
 だが、あれから幾多の戦いを経て、ピートの実力は大きく向上している。
 敵の能力も知っている今となっては、圧倒的にこちらが有利と言えるだろう。
 それでも万が一、二度目の不覚はとるまいと気迫で圧力をかけていく。

 かつて対峙した時と、雪女の姿は何ら変わっていない。
 その名の通り雪のような白い肌と、風に舞う絹糸のような髪。
 引き込まれてしまいそうな切れ長の瞳は、氷のように冷たく輝く。
 長いまつげと厚い唇は淫靡な印象を与え、見る者を捉えて放さない。
 はだけた胸元からこぼれ落ちそうな胸と、しなやかで美しい手足。
 理想的な五体の全ては、男を誘惑するための極上の武器。
 浅ましい思いを抱いて心奪われた者は、魂まで凍らされ命を失うだろう。
 妖しく美しく、そして恐ろしい雪と氷の精。それが雪女――

「どこかで会ったかしら……ぼうや?」

 物憂げな吐息と共に、氷の美貌がゆっくりとピートに向けられる。

「お前の目的は何だ? どうして再び姿を現した? 返答次第では――」
「私……私はどうしてここにいるのかしら? 思い出せない……何も……」
「とぼけるな!」

 食ってかかろうとするピートの肩に、唐巣は手を置いて静かに首を振った。
 ピートは端整な顔つきに似合わず、頭に血が上りやすい。
 そういった熱血漢なところが彼の長所でもあるのだが、交渉・会話においては冷静さが何よりも重要になる。
 戦闘技術について教えることは少なくなったが、心構えはまだまだ教育の余地があると言えるだろう。
 唐巣は興奮気味の弟子を下がらせ、雪女と向き合う。
 眼鏡のレンズ越しに雪女の瞳をじっと見つめ、やがて口を開いた。

「私の事を憶えているかい?」
「あなたは、誰?」
「私の名は唐巣和宏。以前、君と戦った者だ」
「戦った……」
「そして君は、私の弟子である美神君によって退治された――はずだったんだが」
「ダメ、憶えてないわ」

 唐巣の脳裏に、雪女の様子がおかしいと言った代表の言葉が蘇る。
 確かに、先程から彼女の言動はどうにも要領を得ない。
 危害を加えようという気配や敵意も、今のところ感じられない。
 相手の言葉や表情にも神経を集中させていたが、嘘を言っているようにも見えなかった。
 雪女の状態を正確に把握するべく、さらに唐巣は質問を続ける。

「自分が何者かもわからないのかね?」
「雪と氷より生まれた身体で、全てを凍らせる……そう、私は雪女」
「ふむ。ではなぜ人前に姿を現すのに、何もせず去っていく? 雪女の仕事は全てを凍らせることなのだろう?」
「ひとつだけ約束を憶えてるわ」
「約束?」
「二度と人を殺めないと――そのとき、すごく屈辱的で冷たいことをされたよーな気もするけど……まあいいわ」
(み、美神君のことか……)
「自ら誓った約束を破ることはできない……それが妖怪の掟。けれど、ひとりぼっちは寂しかったわ。せめて遠くからでいいから、人の姿を見ていたかったのよ」
「そうだったのか」

 唐巣は再び、じっと雪女の瞳を見つめる。
 濡れた氷のように透き通る瞳は、かつて見た邪悪な妖怪のそれではない。
 迷い、救いを求める子猫のように――寂しさに凍えていた。
 村人の証言と彼女の話から考えれば、今のところ人間に危害を加えるということは無いだろう。
 妖怪が調伏され改心することは、さほどめずらしい話ではない。
 ただ、彼女が記憶を失いさまよっていることが心に引っ掛かる。
 過去を失い、雪女としての本能を封じた彼女の境遇は完全な孤独であり、それを思うと心が痛む。
 無害だからといってこのまま放置するのは、依頼を受けたGSとしてあるべき姿ではないと唐巣は確信する。
 迷い苦しむ者があれば、たとえ妖怪でも手を差し伸べるのが自らの使命なのだと。
 すっかり冷え切った丸い眼鏡を指で直すと、優しい口調で彼は言った。

「私と一緒に来るといい。ここにいても、何も変わらないんじゃないかな?」
「あなたと一緒に?」
「神の名の下に、君の助けになることを約束しよう」

 あまりの突然な発言に驚いたピートが、慌てて二人の間に割って入る。
 そして唐巣の身体をぐっと押しながら言った。

「ちょっと待ってください先生! 自分が何を言ってるのかわかってるんですか!?」
「いいかいピート君。力で解決することだけが除霊の全てではないんだ。このようなケースもあることを、この機会に学んでおくといい」
「しかし!」
「それとも君は、あくまで力での解決を望むと?」
「い、いえ、決してそういうわけではなく――はっ!?」

 ある考えに気付いたピートは両手で頭を押さえ、ブンブンと首を振りながら後ずさる。

「ま、まさか先生……あの女のせいで、青春が蘇ってしまったとでもゆーんですかっ!?」
「失礼な上に下品なことを言うなぁーっ! どこでそんなことを憶えてきたんだねッ!?」

 唐巣は眼鏡に亀裂が入るほど叫ぶと、荒れた呼吸を整える。

「一度は敵対した相手だから、不安なのはわかるがね」
「だからそうじゃなくて、相手は魔性の女妖怪なんですよ? 一緒に暮らすだなんて、どういう事になるのか先生はわかってない、絶対わかってないっ!」
「とにかく、黙って私の言う通りにしなさいピート君。ところで――」

 唐巣が雪女に目をやると、彼女はキョトンとした眼差しで見つめ返してくる。

「君のことは何と呼べばいいのかな? さすがに『雪女』では都合が悪いからね。名前が必要だろう」
「名前……」

 吹雪は勢いを増し、雪女の美しい髪がざわっと舞い上がる。
 艶っぽい仕草で乱れた髪をかき上げると、吹き荒ぶ白雪の空を見上げて彼女は呟いた。

「吹雪……でいいわ。こんな夜に出会ったんだから、ね」
「いい名前だ。じゃあ吹雪君」
「ええ、連れて行って」

 差し出された唐巣の手に、白くしなやかな手のひらがそっと重ねられる。
 こうして、記憶を失い蘇った雪女『吹雪』は唐巣に身柄を引き取られることになった。
 ピートは溜息混じりに「どうなっても知りませんよ」と呟き、ガックリと肩を落として嘆くばかり。
 そしてこの後、彼の懸念は的中してしまうことになる――




 雪女は昔話や伝説にあるように、体質を人間と同じに変化させることができる。
 熱さや火も、よほどの高温でなければ問題はない。
 そのおかげで、素早く人間の生活に溶け込むことができた。
 そして記憶を失ったせいなのか、吹雪は意外にも素直で従順だった。
 とりあえず彼女に家事をやらせてみると、驚くほど上手い。
 料理の手際・味付けも完璧で、掃除や洗濯も細かい部分まで気が利く。
 そして時折見せる彼女の涼やかな笑顔は、女っ気のなかった教会に華を添える。
 時折、胸を押さえて苦しそうにしていたが、大抵すぐにけろりと治った。
 唐巣がそれを心配すると、決まって「平気よ」と微笑み返す。
 その笑顔を、唐巣は信じることにした。
 細やかな気遣い、そして美貌と合わせて、吹雪は文句の付けようがない女だった。
 ピートは相変わらずいい顔をしてはいなかったが。

 ある日のこと。
 唐巣とピートの二人が用事で出かけ、吹雪がひとりで教会の留守番をしていた。
 扉の開く音と共に、若い男が教会へと足を踏み入れる。
 彼はキョロキョロと礼拝堂を見回すと、声を上げた。

「こんちわー。美神さんの使いでやってきたんスけどー」

 緊張感の無い声でそう言ったのは、赤いバンダナを巻いた若者――横島忠夫だった。
 それから何度か呼びかけても、唐巣もピートも姿を見せる気配がない。
 留守なのに施錠していないとは、不用心だと横島は違和感を憶える。
 しかし、いないのなら仕方がないと諦めて帰ろうとしたその時。
 誰かの足音が聞こえて振り返ると、どこか見覚えがあるような女が立っていた。

「唐巣神父は留守にしてるわ。なにかご用かしら?」

 透き通るような、そしてどこか危険な甘さを感じさせる声。
 白い着物に身を包む、教会に不釣り合いな美女――吹雪が、じっと横島を見つめる。
 その瞬間、横島の心を支配していたのは自分がここにいる理由や曖昧な記憶よりも、
 煩悩を刺激してやまぬ色香を放つ女性が目の前にいると言うことだけ。
 光の速さで横島は吹雪の手を握り、まつげが触れてしまいそうな程に顔を近付けていた。
 冷静な思考は、すでに煩悩で駆逐されている。

「美しいおねーさま、この出会いに運命を感じませんか?」

 などと歯の浮くようなことを言いつつも、その目はギラつき、鼻息も荒い。
 そのスピードに驚きはしたものの、吹雪は息づかいが感じられるほど密着する横島をいきなり拒絶はしない。
 じっと横島の目を見つめ返し、艶やかな唇を開いて囁く。

「ここは教会。迷える者が訪れるところよ。悩みがあるなら……話を聞いてあげるわ」

 予想外の言葉と反応、そして吹雪の妖しい色香に横島は一瞬戸惑ってしまう。
 握られた手の力がゆるんだスキに、吹雪はそっと身を離す。
 しかしあからさまに遠ざかるのではなく、互いの声がはっきり聞こえる近い距離を保つ。

(も、もしやこれは遠回しに誘ってる? きっとそうだ、そうに違いないっ!)

 ならばこのノリに身を委ねるべしと、横島も深刻そうな表情と声で答える。

「そうなんです。実は今、とても悩んでいるんです」
「どんな悩みなのかしら?」
「僕は女の人が好きで好きでもー好きで仕方なくて、特にお姉さんのよーな美人を見ると、もう自分ではどうしようもないんスよ!」
「まあ、嬉しい」
「ぼっ、ぼかーもおっ!」

 横島は息を荒げて飛びかかるが、いつの間にか吹雪は背後に回り込んでいた。
 すっかり油断し、無防備な背後を晒してしまっていた横島の身体を、衝撃が貫いた。

「はうッ!?」
「あせっちゃダメ。もっとじっくり、あなたの全てを教えてちょうだい」
「あああッ!? 背中におっぱいがっ、耳に息がっ!!」

 背中に貼り付くふくらみの感触と、耳に吹きかけられる吐息。
 横島の理性は手のひらに落ちた雪のように溶けてしまう。
 そして――

「ハアハア……も、もうこれ以上は……っ!」
「まだ私は満足してないわ」
「あああっ、堪忍してぇーッ!」
「ふふふ……さあ、ぜんぶ吐き出してしまいなさい」

 紅潮した表情で悶絶する横島と、後ろから腕を絡めて息を吹きかける吹雪の声。
 教会の中でめくるめく官能の嵐が――

「なーーーにをやっとるんだね君たちはッッッ!」

 官能の嵐が――

「あら、唐巣神父。おかえりなさい。退屈だったから、ちょっとこのぼうやと遊んでたの」
「大丈夫ですかっ横島さん!?」
「うう、ピート。俺は、俺は知られてしまった……エロビデオを借りにいく時、わざわざ帽子とメガネで変装したうえに電車で二駅離れた街まで足を運んでいることをっ。他にも、人には言えない恥ずかしい秘密の数々を全部白状させられて……あああッ、抵抗できなかった自分が恨めしいッ!」
(えーと、僕はどう答えればいいんだろーか)

 ――特に吹き荒れてはいないようだった。

「精気を奪ったりはしてないから安心して。それとも――」

 横島の首筋に巻き付けていた腕をほどき、吹雪は唐巣の前にすっと近付くと、上目遣いでポツリと言った。

「やきもち?」
「なっ、何を言い出すんだねっ!? そそそ、そーゆーことではなくてだね、ここは神聖な――!」

 年甲斐もなく耳まで真っ赤になって慌てる唐巣を、どこか嬉しそうに微笑みながら吹雪は見つめていた。
 結局横島は用事も果たせぬまま、ピートの肩を借りてふらふらと帰って行く。
 そしてこの瞬間から、ピートの心配が現実のものとなっていくのである。
 それからというもの、吹雪はことあるごとに唐巣に接近するようになった。
 食事の時に「はい、あ〜ん」といって食べさせるお約束なことをしてみたり、
 入浴中に「背中を流します」と言って浴室に乗り込まれたりもした。
 正式ではないにせよ、神父という立場である以上、唐巣はその誘惑に耐えねばならない。
 独身を通してきた唐巣にとってそれはある意味夢のような桃色状況ではあったが、
 それが毎日続くとなるともはや笑い事ではなくなってきた。
 ただでさえ強烈な色気を纏う雪女が、あの手この手で迫ってくるのだ。
 唐巣は精神力を使い果たしてやつれ始め、抜け毛の数も日に日に増えていく。
 そんな師匠を見かねて、とうとうピートが立ち上がろうとしていた。

「これ以上は先生の身体が持ちませんよ。気の毒ですが、彼女にはもう」
「答えを急いではいけない、ピート君。いずれその時は来る。だから、彼女を許してあげなさい」
「先生が何を考えているのか、僕にはわかりませんよ……」

 その日の夜、吹雪はやつれた唐巣のためにといろいろな料理を用意していた。
 レバニラ炒め。
 生ガキ。
 アーモンド。
 スッポン鍋。
 ドリンクにはユン○ル。
 どれもこれも、精力を付けるのに良いと言われる品揃えである。
 それらをよく確認する気力も失せていた唐巣は、食事を平らげて寝室に向かい、静かに目を閉じた。
 ところが――
 当然の如く、必要以上に元気になりすぎて眠れるわけがなかったのである。
 熱くなった体を持て余しつつ何度も寝返りをうっていると、音もなく部屋のドアが開いた。
 この気配に気が付き「誰だね?」と尋ねるが、返事はない。
 唐巣は手探りで眼鏡を手に取って身につけると、目を凝らして暗闇を見つめる。
 するとそこには、薄布一枚に身を包んだ吹雪が立っていた。
 冬の月明かりに照らされ、滑らかな曲線を描く身体は妖しく輝く。
 彼女はゆっくり唐巣のベッドに近付くと、物憂げな表情で呟いた。

「唐巣神父……今夜は、ここにいてもいい?」
「ぶはっ!?」

 鼻血を噴いてひっくり返りそうになった唐巣だったが、どうにか持ちこたえて飛び起きた。

「い、いきなり何をッ!?」
「いきなりなんかじゃないわ。これでもずっと我慢してたのよ」

「しかし男と女が同じ部屋で夜を過ごすというのは、ごにょごにょ……」
「眠れないんでしょ?」
「なっ、なぜそれを」
「私の料理、効き目はあったみたいね」
(まさかハメられた――!?)
「寂しくて……不安なの。だから、お願い」
「あっ、あああっ!?」

 息づかいが感じられる程に、吹雪の身体が迫っている。
 潤んだ瞳を見ていられなくて目を逸らすと、肩まで大きくはだけた胸元が待ち構えていた。
 心と視界がぐにゃりと歪む。
 やばい。
 これ以上はもう堪えていられる自信がない。
 そういえば、こんな状況になったのはどれくらいぶりだろう。
 ずっと、遠い過去のことだったような。
 そんな自分が、よくぞここまで耐えられたものだと褒めてやりたい。
 吹雪がベッドに腰掛け、身を預けてくる。
 ふわっと、甘い香りが舞い上がったような気がした。
 ドクン、とひときわ大きな鼓動と共に、理性が音を立てて崩れてしまう。
 ――かと思ったその時。

「さ、唐巣神父も遠慮しないで、どんどんやってね」

 吹雪はどこに持っていたのか、日本酒の徳利を出して猪口に注ぎ始めた。

「へっ?」

 あっけにとられている唐巣をよそに、吹雪はぐいぐいとお酒をあおっていく。
 酔いが回ったのか、けらけらと陽気に笑いながらあっという間に徳利を空にすると、
 ぱたりとベッドに倒れ込んで、静かな寝息を立てて眠ってしまった。
 心底ホッとした唐巣は、吹雪を起こさないようにベッドから抜け出す。
 そっと毛布を掛けた時に見えた吹雪の寝顔は、まるで少女のようにあどけなく見えた。
 人騒がせな女性ではあるが、どこか憎めない。
 そう、まるで若い頃の美神美智恵や、令子にどことなく似ているようで。
 つくづく自分は女性が絡むと振り回されてしまうのだな、と苦笑した。
 さすがにこのまま自分もベッドで寝るわけにもいかないので、唐巣は部屋を出る。
 暗闇に包まれた礼拝堂に足を運ぶと、冷たい空気が心地よい。
 窓から差し込む月明かりは、十字架を静かに浮かび上がらせている。
 その前にひざまずくと、両手を胸の前で組み、目を伏せる。

(不安、か。そろそろ彼女自身、気が付いているかもしれないな。神よ……あわれな迷い子に、救いの手を差し伸べ賜え……)

 唐巣はいつまでも、祈りを捧げ続けていた――



 翌日。
 唐巣はピートと吹雪を連れ、日用品などの買い物に出かけていた。
 用事を済ませた帰り道、荷物を抱えた男二人と、その後をついて歩く女の姿。
 どこにでもありふれた、ごく普通の日常。
 他愛ない会話と共に過ぎていく時間。
 だけど、どこか心地よい。
 こんな暮らしが続くなら、記憶など別に戻らなくてもいいと吹雪は思っていた。
 そんな時、突然胸を貫くような衝動に襲われ、足を止めてうずくまってしまう。

(また……始まった……もう、耐えられそうにないわ……)

 自分が何者であったのか。
 それを否応なしに呼び戻す妖怪の本能は、彼女の中で日に日に膨れ上がり続けていた。
 なぜそうなるのかは、自分が妖怪だと自覚している彼女にとって大した問題にはならなかった。
 それよりも、その矛先が身近な人に向けられてしまう事こそが、何よりも怖い。
 吹雪の様子がおかしいことに気が付いた唐巣とピートは、急いで彼女のそばに駆け寄った。

「どうしたのかね吹雪君? どこか具合が――」
「ち、近寄らないでっ!」

 二人を振り払おうと伸ばした吹雪の手が、ピートの腕を掴む。

「これは妖気――うっ!?」
 
 その途端、ピートの身体からみるみる力が抜けてしまう。
 まるでこぼれた水に乾いた布を当てた時のように、エネルギーが吸い上げられていく。
 意識がもうろうとし、力なくヒザを付いたピートと入れ替わるように、吹雪がゆらりと立ち上がった。

「ごめんなさい。私、もう帰らなくては」
「帰る? どこへ帰るというんだい?」
「思い出したの。何もかも全部。だからもう、ここにはいられないわ」
「……そうか」
「さようなら。もう、きっと会うことはないわね……」
「これからどうするつもりだい? 人の命を吸わずに、君は生きていけないはずだろう」
「!」
「そのまま永久に、苦しみを抱えて過ごし続けるというのかい?」
「……わかっていたのね。こうなることを」
「ああ」
「そう。それなのに私と暮らそうだなんて、唐巣神父はお人好しね」
「迷える者を目の前にして、放っておくのは私の神の意に反するからね。君を……救ってやりたかった」
「ありがとう……唐巣神父。その言葉で、決心が付いたわ」

 かすかに微笑み、吹雪はそっと目を閉じる。
 すると彼女の身体から、細かい氷の粒子が少しずつ舞い散り始める。
 身体を構成する霊力が、大気に放出していた。
 それは奇しくも蘇る以前と同じように、自らの命に幕を引こうとする行為。
 約束を守るため、そして誰も傷つけないようにと――

「短い間だったけど、楽しかったわ。せめて最後まで、私を見送ってね。もう我慢するのも疲れちゃった」
「吹雪君……」
「でも、残念。一度でいいから……ううん、なんでもないわ。気にしないで」

 その願いが他愛のない自己満足であることはわかっていた。
 なのに、この期に及んでそれを望もうとしている自分が少し可笑しくて。
 口の端を上げて、自虐的な笑みをふっと浮かべた時。
 突然、腕を掴まれ引き寄せられた。
 ふたつの腕で身体を離さないように力強く、そして包み込むように抱きしめられて。
 温かくて広い胸に、顔をうずめていた。
 耳元で、やさしい人の声がした。

「私は酷い男だな……助けになると言いながら、君を止めることもできない。こうなることを知っていて、約束などと」
「やっと抱いてくれたわね……嬉しい」
「すまない」
「いいの、謝らないで。あったかいわ……とっても」
「……」
「満足よ……とても、満足……」




 あなたに会えて良かった
 誰かにこうしてもらいたくて、私は蘇ったのかもね
 ずっと、この瞬間を待ってたんだって今はわかるわ
 だから最後まで、離さないでいてね
 とても良い気分だわ
 こんなふうに
 幸せな別れもあるのね――




 唐巣の胸の中で、吹雪は光の粒となって消えていった。
 誰もいなくなった胸元が、やけに冷たくて。
 言葉にはできない思いが、胸の奥からせり上がってくる。
 それを必死に飲み込み顔を上げると、一粒だけ雪が舞い降りた。
 それは導かれるように、差し出された手のひらに乗り。
 音もなく、静かに溶けて滲む。
 その雪は、なぜか温かかった――




「――ええ、事件は無事に解決しました。もう二度と雪女が姿を見せることはないでしょう」

 唐巣は北海道の依頼主にそう伝えると、静かに受話器を置く。
 振り返れば、ピートの姿がそこにある。
 ヴァンパイアハーフの驚異的な生命力は、この程度で燃え尽きてしまうようなことはなかった。
 ピートは今回の除霊の真意をいまだに理解しかね、唐巣に尋ねた。

「先生、どうしてこんなに手のかかる方法を選んだんですか? いえ、文句があるわけではないのですが」
「雪女がなぜ人の前に姿を現すか知っているかい?」

 その問いかけに、ピートは黙って首を振る。
 唐巣はゆっくりと頷き、静かに語り始めた。
 冷たい雪の精である雪女は、ぬくもりを求めて人間の前に現れる。
 胸の奥が寒くて悲しいから。
 それをぬくもりで満たして欲しいから。
 熱く燃えている命に引き寄せられ、それを自分のものにしようとするのだ。
 吹雪は人を殺めないと誓ったが、雪女の本能は狂おしい程に命を求める。
 そして復活したばかりの彼女は、わずかな妖力しか残っていなかったに違いない。
 放っておけば、葛藤と飢えで逆に手が付けられない存在になる危険性があった。
 だから、彼女を連れて帰ったのだと唐巣は説明した。
 共に過ごすことで、寂しい心が満たされればあるいは、と。
 一握りの小さな可能性に賭けて――

「もし……彼女が欲求に逆らえず人を襲い始めたら、どうするつもりだったんですか?」
「過ぎ去った時間に『もし』はないが、その時は私が――」
「そうですよね。すみません、バカなことを聞いてしまって。しかし彼女は、ぬくもりを感じられたんでしょうか」

 身体の半分に妖怪の血が流れているピートは、吹雪の最後を思う。
 蘇った彼女の心は邪悪ではなかったが、雪女としての本能がそれを淘汰しようとしていた。
 妖怪にも個体差というものがあり、それによって性格は大きく異なってくるものだ。
 もし、吹雪の妖怪としての本能がもっと弱かったなら。
 それを自らコントロールできたのなら。
 自分と同じように、人間達の中でうまくやって行けたのではないか。
 胸が、ぎゅっと痛んだ。

「私は吹雪君を救おうと意気込んではいたが、結局何もできなかった。被害者が出なかった結果を喜ぶべきなのかも知れないが……本当にこれで良かったのかと思ってしまうよ」

 心のないぬくもりに意味はない。
 肌を重ねるだけなら簡単だが、一時は満足しても、またすぐに乾き凍えてしまうだけ。
 本当に心を温められるものは、やはり心しかないと唐巣は思う。
 自分が吹雪にそれを与えられたかどうか、もはや知る術はないが。

「けれど――彼女が最後に残した言葉を信じようじゃないか」
「そうですね……」

 ピートは師が心優しく、大きな人物であったことをあらためて実感していた。
 雪女である彼女がぬくもりを知ることができたのなら。
 妖怪が人間の心を、人間が妖怪の心を想うことができるのなら。
 憎み滅ぼすのではなく、慈しみ手を取り合えるはずだと。
 それを、身をもって示してくれたのだから。
 たとえ今はその努力がこういう結果になったとしても、
 今回の経験はピートにとってかけがえのない財産となっていくだろう。
 ピートは十字架の前に跪き、吹雪の中で出会った優しき雪女のために祈り続ける。
 唐巣もまた、吹雪との過ぎ去った、そして確かに共有した時間に思いを馳せていた。



(君との暮らしは楽しかったよ。ありがとう、そしてさよなら……吹雪君)



 冬の終わりの、わずか数週間の出来事だった。
 想いは胸の奥で熱を帯び、その輝きは失われることはない。
 風が吹いた。
 新緑の匂いを運ぶ風が。
 暖かい春の息吹が、冬の寒さに疲れた体と心を癒してくれる。
 教会の遙か天高く、風に乗ってひとひらの雪が空の彼方へと舞い上がっていった。