酸性雨

 雨が降り続いていた。
 もうこれで何日目だろうか。
 晴れ渡る空を見たのがどれくらい前だったか、もう思い出せない。
 それは、天の恵みなどではない。
 木を枯らし、コンクリートを溶かし、鉄を腐らせる酸の雨。
 工業文明が飛躍的に発達した見返りに、人間は天の恵みを悪魔の戯れに変えてしまった。因果なことではあるが、それも人の業、宿命というものか。しかしながら、その下を歩けと言うのはカオスにとって不愉快でしかなかった。
 無論、不死身の彼が健康志向を目指しているわけではないのだが。

「食材の・買い出しに・行ってきます」
「待て、マリア。何も持たずに外に出る気か?」
「イエス、ドクター・カオス」
「馬鹿者……この雨がどういう――」
「防水機能に・問題・ありません」
「……わかった。ならば、わしも一緒に行こう」
「サンキュー。ドクター・カオス」

 大きなこうもり傘を差して、降り続ける酸の雨の下を二人は歩いてゆく。
 大事な――大事な娘と寄り添うように。
 少し照れくさい気もするが、悪くないとカオスは思う。

 酸の雨は、当分降り続きそうだ――

「ドクターカオス」
「ん、何じゃ?」
「雨具の面積・不足。ドクターカオスの・体表面・68%に・雨水・かかっています」
「ああ、気にするな。その代わりお前は濡れんですむじゃろう」
「体温・低下します。肉体に・負担・かかります」
「なあ、マリアよ」
「イエス・ドクターカオス」
「わしは不死身じゃ。それに多少無茶したところで、この老いた肉体の未来などたかが知れておる。だが――」

 カオスは曇り空を見上げ、降り止まぬ汚染された雨をその顔に受ける。深く刻まれた皺の間を、幾重もの筋となって雨水が流れ落ちていく。そして、再びマリアを見つめカオスは言った。

「お前と言う存在はお前一人のものでなく、わし一人の存在でもない。わかるか?」
「……ノー・ドクターカオス」
「わしは他人の、愚かな人間の将来などどうでもいいとさえ思うこともある。他人もまた、わしのことなど目もくれぬ輩もおるじゃろうな。だが、お前は違う。お前という存在が示す可能性、その先にある未来に人々が目を向けたとき、人類はもう一歩先へと進むことが出来るだろう。科学とは、自己満足の手段ではない。その有り様を間違えれば、この酸の雨のように自らの首を絞めることになろう。認められ、将来の礎となってこそ、その価値は輝きを放ち意味を持つのじゃ……む、話が脱線したか?つまり、あー、なんだ――」

 照れくさそうに頬を掻くカオスの顔を、マリアはじっと見つめ次の言葉を待つ。


「お前は大事なわしの娘じゃから、こんな汚れた雨にうたせるわけにはいかん、と言う事じゃ」
「……サンキュー・ドクター・カオス」
「ああ、ガラにもないことをいうとこそばゆくてかなわん。さっさと買い物を済ませてしまうぞマリア」


 視線を逸らし先を急ぐカオスを、マリアはじっと見上げる。
 大きな、大きな人。父であり、造物主であり、寄り添うべき人。
 そう、彼の人が自分を思ってくれるように、自分もまたその気持ちは変わらないが、自分にはそれを伝える手段が乏しい事をマリアは知っている。そして、それ以外に思いを伝える手段を知らない。
 だからただ一言。ほんのわずかな言葉に過ぎないが、精一杯の思いを込めて。


「マリアは・ドクターカオスと・共にいます」