プライド

 人生、どんな出来事がきっかけになるかわからないものだ。
 私もかつて、そういう変わった体験をしたことがある。今にして思えば笑い話かもしれないが、当時の私には何よりも重大なことだった。
 その結果を私は後悔していない。妻を誰よりも愛しているし、娘は何物にも代え難い宝だ。
 娘を膝に抱きながらテレビを見ていると、娘が顔を上げて尋ねてきた。

「ねーぱぱ、ぱぱとままはどーしてケッコンしたの?」
「おませさんなことを言うようになったなぁ、お前」
「ねー、どーして?」
「んー、それはなー」


 くりくりとした可愛い目で見上げてくる娘の可愛さといったら。いや、頬をゆるませている場合じゃない。私はその頭を撫でながら、あの時のことを思い出していた。




「極楽に逝っちまいな!」

 横島が投げつけた文珠の爆風に巻き込まれ、不快な羽音を立てる虫の悪霊は消滅していく。ここ数日、下水処理場に人の血を吸う悪霊が現れるとの依頼を受け、高校を卒業したばかりの駆け出しGS横島忠夫は現場に赴いていた。そこに現れたのは、羽根をあわせたら二メートルはあろうかという巨大な『蚊』の悪霊だった。しかし所詮は蚊、大した敵ではなかった。なかったのだが。

「うわっ!?」

 文珠でバラバラになった身体の頭部だけが、横島の首筋に飛びついた。細い針のような口吻を突き刺し、どこまでも本能を満たそうとする。少々面食らった横島だったが、もうひとつの文珠を出現させて残りを消滅させた。首筋には赤い跡が残ったが、特に痛みもなかったのでそのまま帰ることにした。
 だが、恐怖は翌日訪れたのである。

「な、なんじゃこりゃあああ!?」

 翌日、アパートで目を覚ました横島は自分の身体の異変に思わず声を上げた。両腕の感覚が無くなり、まるっきり動かせなくなってしまったのである。横島はイモムシのように身をよじりながら起きあがり、どうしてこうなったのかその原因を考えた。

「やっぱり昨日の、首を刺されたアレだな。あの野郎、変な毒もってやがったのか」

 もう一度身体を確認してみるが、腕がまったく動かない以外に異常はない。とりあえず誰かに連絡を取って、どうにかしてもらわなければ着替えも食事も出来ない。
 パジャマ姿のままで外を歩くのは勇気がいるが、もはやそれどころではない。ところが手が使えないと玄関を開けることが出来ず、口でどうにか開けようにも、立て付けの悪いドアは開けるのにちょっとしたコツが必要で、非常に難しかった。
 悪戦苦闘しているうちにバランスを崩して倒れた横島は、後頭部を激しく打ちつけて気絶してしまった。




「――さん、横島さん」
「う……」

 朦朧とした視界が次第にはっきりとしてくると、心配そうに自分を覗き込むおキヌの顔が目の前にあった。

「おキヌちゃん……どうしてここに?」
「横島さんがいつまでたっても事務所に来ないから、心配で見に来たんです」
「そっか、ありがとう。悪霊の毒にやられてこのザマでさ、両腕がまったく動かないんだ」
「困りましたねぇ。とりあえず玄関で寝てたら風邪引いちゃいますよ。立てますか?」
「あ、ああ」

 横島はおキヌに肩を貸してもらうと、とりあえず布団の上に座り込んだ。

「しかしまいったな。文珠を作ろうにも感覚が無くて手のひらに集中できないし、いつ治るのかもわかんねーし」
「後で美神さんに相談するしか無さそうですね」
「あーあ、きっと怒られるだろうなー」
「でも、横島さんが無事で安心しました。きっとすぐ良くなりますよ」
「そうだな、他は何ともないんだし」

 おキヌの励ましに相づちを打っていると、タイミング良く横島の腹の虫がなる。

「うふふっ、私、何か料理作りますね」
「うん、頼むよ」

 おキヌは手際よく部屋を片付け、エプロンを身につけて料理を作り始めた。鼻歌を歌いながら台所に立つおキヌを見ていると、横島はおもわず頬がにやけてしまう。

(うーん、新婚ってこんな感じなんだろーか。いつ見ても楽しそうに料理してるおキヌちゃんって……)

 こっそりと幸せな感覚に浸りながら、横島は料理が出来上がるのを待ちこがれた。

「おまちどおさま。たくさん食べてくださいね」

 微笑みながらおキヌはちゃぶ台に食事を並べていく。それらは味噌汁やおひたしなど特別変わったものではないが、おキヌの腕にかかれば立派なご馳走である。喜んでそれを口に運ぼうとした横島だったが、次の瞬間ふと我に返った。

「そーいや、手が動かせないんだった」
「あっ……」

 おキヌも料理作りに没頭してそれを忘れていたらしく、すこし戸惑った。が、すぐに気を取り直してにっこりと笑って言った。

「じゃあ、私が食べさせてあげます」
「えええ!?」

 おキヌの提案に思わず横島は声を上げる。まさかここで、あの有名な『あれ』を体験できるとは思っても見なかったからだ。

「もちろん俺は嬉しいけど……い、いいのかい?」
「はい。だってそーしないと食べられないじゃないですか」
「うおおっ、ありがとうおキヌちゃん」

 おキヌは器用に料理を箸で取り、嫌な顔ひとつせず――むしろ嬉しそうに――食べさせてくれた。もちろんお約束の『はい、あーん』も忘れない。小さな野望のひとつが実現した横島は、つい目から溢れ出す汁で料理をしょっぱくしてしまうのだった。

「ごちそうさま。もうお腹一杯胸一杯って感じだよ」
「ホントはちょっと恥ずかしかったんですけど、横島さんに喜んでもらえたから」
「お、おキヌちゃん……」

 少し顔を赤らめながらそう言うおキヌの顔は、まだまだ女慣れしきっていない横島にとって凄まじい破壊力を秘めていた。効果音を付けるならば間違いなく『きゅん』となっていたことだろう。しかし悲しいかな、横島の両腕はまったく言うことを聞いてくれなかった。

(ちくしょー、なぜこんな時に限っ……こ、こんなと……き……!?)

 自らの身体に迫る変化に、横島は戦慄を憶えた。それは誰も逃れられぬ定め。生けとし生けるもの全てが支配される現象。

 尿意。

 その生理現象は容赦なく横島を遅い、体内の筋肉を収縮させてそれを誘う。だが、今の横島にとってそれは死刑宣告にも等しいことであった。

(手が使えんのにどーやってしろってんだぁぁぁ!)

 このままではいい歳して○禁という、決して背負ってはならぬ十字架を負うことは免れない。さらに目の前には女性が、それもおキヌが。心身共に汚れてしまう前に、どうにかこの状況を切り抜けなくてはならなかった。

「お、おキヌちゃん、一度帰って美神さんに」
「お茶が入りましたよ横島さん」
「ぬああっ!?」
「ど、どうかしたんですか?」
「い、いや……なんでもないよ」
「冷めないうちに飲んでくださいね」
「あ、ありがとう」

 明らかに声が震えているのが自分でもわかる。しかし、ここで悟られるわけにはいかない。悟られてしまったら、さらに恐ろしいシナリオが待っていることを横島は知っていた。お茶をひとくち口にする度に、肉体からの欲求が加速度的に強烈になっていく。

「おっおおお!?」
「やっぱりヘンですよ横島さん。どこか具合が――」
(あ、あかん、こらあかん。この手は使いたくなかったが、もはや選択の余地はないっ!)
「……横島さん?」

 横島の顔には脂汗が浮かび、目は血走り、唇をきつく噛んで震えている。尋常でない様子に思わず息を飲んだおキヌに、横島は切羽詰まった声で言う。

「おキヌちゃんっ」
「は、はいっ?」
「お、俺のこと……好きかい?」
「へっ!?」
「もしそうなら……今すぐ俺の前から消えてくれないか!」
「あ、あの、横島さんの言ってることがよくわかりません」
「だからっ、俺を好きだと少しでも思ってくれるなら、今すぐ出て行ってくれっ!」
「わ、私……出て行きません」
「うおおーい、マジっすかー!? なんか生きる気力を激しく削がれたんですけど!?」
「横島さんが苦しんでるのに置いてくなんて、絶対出来ません」
「ものすごーく優しくて嬉しいセリフだけど、今はとことん迷惑なんだよそれがぁぁぁ!」
「だからっ、どうしてなんですかっ。それを聞くまで私はここを動きません!」
「それを言ったらもっと恐ろしいことが起こるから言えないんだよ!」
「私は何があっても構いません!」
「俺が構うんじゃぁぁぁッ!」

 もはや臨界点は目の前に迫っていた。横島の体は激しく震え、内股気味になって必死に堪えている。だが、そのポーズがおキヌに閃きを与えてしまった。

「も、もしかして……トイレに行きたいんですか?」
「うああああ!?」

 その反応から図星だと理解したおキヌは、かあっと顔を真っ赤にして黙り込んでしまう。しかし、意を決したように顔を上げて横島を見つめた。

「そうですよね、手が使えないならトイレも辛いですよね」
「お、おキヌさん……ま、まさかとは思うけど――」
「私、手伝います!」
「イヤぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「だ、大丈夫ですよ横島さん。その……えっと、目をつぶって見ないようにしますから」
「そーゆー問題じゃないんだよぉぉぉぉ!」
「でもこのままじゃおもらししちゃいます! それでもいいんですか!?」
「ぐっ!?」
「大丈夫、誰にも言いませんから……」
「あっあああああああ!」

 それから結局、一週間もの間横島の両腕が動くことはなかった。後に己の全てを知られた横島は、介護される老人の気持ちが痛いほどわかった、と語っていたという。そしてこの時の秘密を守るために横島に残された選択肢は、それを知るものを始末してしまうか、もしくは――




「ねーぱぱ、どうしてケッコンしたのかおせーてってばー」
「そりゃもちろん――愛してたからに決まってるさ」
「きゃー、あいしてる、あいしてる!」

 キッチンの方から妻の呼ぶ声がする。私は娘を抱いて、妻の元へ向かう。昔から変わらぬ妻の料理の匂い。妻は心優しく、美しく、文句など付けようがない素敵な女性だ。いま、本当に幸せだと私は心から思う。きっかけはまあ、あの選択肢から選ぶより無かったわけだが、今が幸せならそれでいいのではないだろうか。ただ、一言だけ言わせて欲しい。




 男には、全てを賭けてでも守らねばならぬプライドがあるのだっ。