夏の思い出


 夏期休暇。つまり世間一般で言うところの夏休みである。普通、これを与えられて喜ばない者はいないだろう。ところが彼女は、初めて貰った休暇に明るいとは言い難い表情で考え込んでいた。

(休みっていっても、こっちはまだ馴染みも薄いし。あの子に会いに行こうかな。それにしても、あそこの方が知り合いが多いって言うのも、つくづく因果だね……)

 ふっ、と自嘲的に呟きながらも、艶のある唇は美しく弧を描く。夕焼けの光を糸にしたような朱の髪を軽くかき上げると、均整の取れた身体をひるがえして彼女は虚空へと消えていく。

「ふふふ、貴様の行き先などお見通しだ。平穏無事に休暇を過ごせるなどと思うなよ……!!」

 そしてその後を追うように、物騒な気配を放つもうひとつの影が飛び立って行った。




「うーーーみーーー!」
「うーーーみーーー!」

 浮き輪を膨らまして身に付け、屋敷の中を走り回る小さな物体がふたつ。共に手足の伸びきっていない、まだあどけなさを残す子供達である。どうやら海に行く準備を済ませ、出発が待ち遠しくて仕方がないと言った様子である。夏休みとなれば、子供のいる家庭なら珍しい光景ではないだろう。しかし、この二人の場合は少々普通とは違っていた。

「まったく、殿下もパピリオも……その元気をもう少し修行に回したらどうです」

 腰に手を当ててため息をついているのは、日本有数の霊山である妙神山の管理人、小竜姫。そして、子供達はそれぞれ高い霊力を持つ神族、天竜童子と魔族の娘パピリオだったのである。元々所帯じみた雰囲気で緊張感が薄い事は一部のGSの間では有名だったが、ここに極まれりといったところだろうか。そして今、妙神山の住人達は俗界に降りて羽根を伸ばしに行く事になっていた。




「ええと、他に必要な物は、っと。ゴーグルに虫除けスプレーに麦わら帽子、日傘とシートが……」

 いそいそと出発の準備をする住人の中に、魔界からの留学生ジークフリードの姿もある。小さくまとめた荷物を運んでいると、廊下の向こうから小竜姫がパタパタと足音を立てながら走ってきた。

「ジーク、パピリオを見ませんでしたか? たった今、あの子にお客さんが」
「パピリオの客という事は」
「ええ、彼女です。あなたも久しぶりに会うんじゃないですか?」
「あ、ああ。最近は一緒の任務も少ないからな。パピリオなら部屋にいるよ」

 小竜姫は子供部屋をのぞき込み、がさごそと荷物を用意しているパピリオに声をかけた。部屋の外で待っていたジークと共に、パピリオは修行場の入り口に向かう。鬼門たちはしっかりと門を閉ざしていたが、片手で押すとすんなり開いた。

「や、久しぶり。元気にしてた?」

 軽く片手を上げて笑っていたのは、魔族の軍隊に志願して以来、なかなか会えなくなっていたパピリオの姉、ベスパだった。

「ベスパちゃん、久しぶりでちゅーーー!」

 パピリオはベスパにしがみつくと、嬉しそうに頬ずりをしていた。

「相変わらず元気そうだねあんたは。こっちの暮らしはどう?」
「いたって平和でちゅよ。ベスパちゃんも変わりないようでちゅね」
「まあね。最近は軍隊もヒマでさ、身体が鈍って仕方ないよ」

 お互いに軽く噴き出すと、ベスパはジークの方に顔を向けた。

「しばらくぶりだね、ジーク」
「ああ、元気そうで何よりだベスパ。で、今日はどうしたんだ?」
「休暇をもらってね。久しぶりにパピリオに会おうかなと思って」
「それは丁度いいタイミングだ。なあパピリオ」
「これから私達海に行くんでちゅ。ベスパちゃんも一緒に行くでちゅよ」

 パピリオが顔を離し、明るい笑顔で答えたその直後。ずしゃっ、という着地音と共に、何かがベスパの背後に降り立った。

「楽しそうな催しだな。ぜひ私も同行させてもらおうか」
「……え?」

 妙にドスの利いた低い声に、三人は思わず固まってしまう。声の聞こえた方向にゆっくりと視線を向けると、そこには腕組みをしたまま仁王立ちするワルキューレの姿があった。

「あ、姉上。いきなり登場しないでくださいよ」
「久しぶりに顔を合わせた身内に対する挨拶がそれか、ジーク」
「い、いや……」

 しどろもどろになるジークをジト目で睨みつけると、ワルキューレはさらに続ける。

「私も一緒に海に行く事、異論はないな?」
「う、あ、それはもちろん――」
「ふふふ、ベスパ……こっそりジークと逢い引きしようなど甘いわ。貴様の行動は、まるっとゴリッと全部お見通しだ!」
「あのね……」
(ふっ、決まった)

 びしっ、と自信たっぷりに指を指すワルキューレに、ベスパは深くため息をついていた。この姉上様が何のために付いてくるのかは、過去の体験(注:『お姉さんは心配性』参照)からよく理解している。考えただけで頭が痛くなりそうだ。
 ともあれ、こうして神・魔混合の夏休みがスタートしたのだった。




「さあ来い、どんな波だろうと余が制してくれるわっ。うおりゃぁぁぁ!」
「あああっ、呑まれてる、呑まれてますよ殿下ッ!?」
「がぼがぼっ!? い、稲村ジェーーーンッ!」
「殿下ーーー!」
「ベスパちゃんも早く、はやくー! 面白いでちゅよー!」
「慌てなくても海は逃げやしないって。あんまり深いところまで行くんじゃないよ」

 照りつける太陽。立ちのぼる熱気。
 真夏の海水浴場は、大勢の人間でごった返している。その中に混じって、妙神山一行の姿もあった。大きな波が来るたびに突撃する天竜童子を、小竜姫と鬼門の二人がヒヤヒヤしながら見守っている。パピリオは波打ち際で、ベスパと水かけっこをしたりして遊んでいた。

「――で。その格好は何なんですか老師」
「イケてるじゃろ?」
「そう言う問題じゃなくて」

 砂浜にはパラソルが立てられ、その下でジークと斉天大聖が向かい合っていた。ジークは普通に上半身裸のハーフパンツ姿だが、斉天大聖は短パンアロハにサングラスという出で立ちである。傍らにはワルキューレもいるが、我関せずと言った表情でよそ見をしていた。

「わしだって若い頃はな、三界を股にかけてブイブイいわせたもんじゃ。まだまだ牙は萎えておらんぞ」
「ちょっ、どこへ?」
「いざ参るぞっ、ぴちぴちギャルよっ!」

 制止も聞かず、斉天大聖は海岸にひしめくギャルに向かって走って行く。やがてジークの耳に『おっす、オラ悟空!』とかいう声が聞こえてきたが、どっちかというと亀仙○じゃないのかというツッコミを飲み込んで知らないフリをしておいた。
 荷物番としてジークが海をぼんやりと眺めていると、波打ち際の方からベスパが戻ってきた。人混みの中を通り抜けてくる姿は、そのスタイル故によく目立つ。白地に不均等な大きさの斑模様が入った布ビキニと、同じ生地で揃えられたパレオ。スラリと伸びる足と、見事な主張をする胸元が男の視線を集めている。そして、ジークもまたその他大勢のように見とれていると、姉に耳を思い切り引っ張られて我に返った。

「ふぅ……」
「もう休憩か?」
「あんまり暑くてちょっとね……それにしても、みんな元気だねー」
「ははは、子供の体力は無尽蔵だからな」
「ほんと、違いないね」

 そんな風に軽口を言い合う二人の間に、ワルキューレがポツリと呟いた。

「……鼻の下が伸びてるぞジーク」
「そ、そんなことは――!?」
「ああ、嘘だ。しかしマヌケは見つかったようだな」
(こ、この人は……っ)

 絶妙に空気を凍りつかせてくる姉のテクニックに、ジークは思わず戦慄してしまう。それから三人はパラソルの日陰で座っていたが、ジリジリと照りつける太陽の熱気に喉が渇いてしまう。

「……喉が渇いたな、ジーク」
「ええ」
「何か飲みたいものはあるか」
「冷えたものなら何でも。ベスパはどうする?」
「ハチミツ味のドリンクがあると嬉しいね」
「だそうですよ」
「……」
「……」
「貴様、察しろ」
「は?」
「女に飲み物を買いに行かせる気か!」
「いや、私は荷物の見張りがありますし」
「ここには三人もいるだろーが」
「姉上、私が行くと行ったら付いてきますよね?」
「当然だ」
「ベスパが一人になってしまうじゃないですか」
「問題でもあるのか?」
「いや、彼女は少し疲れているんですから……」
「うがあああ!? なーにを甘い事をぬかしとるか貴様ーーー!」

 ワルキューレとジークが悶着を起こしかけていると、ベスパがスッと立ち上がって言った。

「私が買ってくるよ。見張りよろしくね」
「お、おい――」

 ジークが声をかける暇もなく、ベスパは人混みの向こうに消えてしまう。その背中を追うように伸ばした右手は、所在なく宙を掻くだけだった。




 海の家の前に立つベスパは、自分の行動を少しだけ後悔していた。周囲を埋め尽くす人、人、人。ただでさえのぼせそうな蒸し暑さだというのに、それに加えて押しくらまんじゅうをしているような気分である。
 さらに一人で立っていると、頭の悪そうな男達がどんどん近づいてきては声をかけてくる。最初の頃は脅しをかけるように答えて追い払っていたが、次から次へと涌いてくるのでいい加減うんざりしてしまった。中にはどさくさに紛れて胸や尻を触ろうとする輩までいたので、そういう命知らずのバカには人知れず地面に埋まってもらうか、沖まで飛んでいってもらう事にしていたが。

「まったく……いい加減に……しろって……の」

 突然目眩がして、ぐらりと視界が揺れた。じわっと光が滲んだような気がした瞬間、ベスパはその場に倒れ込んでしまった。驚いたすぐ傍の女性が声をかけたが、すでに意識は失われてしまった後だった。




 涼しくて心地良い風が吹いている。頬を撫でていくその感覚に、ゆっくりと意識は目覚めた。

「――あれ、ここは?」
「気が付いたか。気分はどうだ?」
「あ……そっか、暑さで倒れちゃったのか」

 ベスパが上体を起こすと、そこは海から少し離れた雑木林の中にある公園のベンチだった。木陰は陽の光を遮り、人の姿もまばらで心地良い。そして、隣にはジークの姿。

「帰りが遅いので様子を見に行ったら、お前が倒れていてな……すまなかった」
「何で謝るのさ?」
「スズメバチの化身のお前が、熱気に弱い事は想像出来たはずだった。それを――」
「ぷっ……あはは、気にしすぎだよ」
「と、とにかく。あまり無理はしない事だ。こうやってのんびりするのも悪くないさ」
「そうね……」

 視線は海の方に向けたまま。けれど、二人の手は少しずつ近づき――

「さて、もう大丈夫だろう。さっさと戻ってこないか荷物番」
「うわっ、姉上!?」
「いい歳した男女がストロベリってるんじゃないぞゴルァ!」
「あだだだだ!? 姉上、取れるから、取れるから!」

 額に井桁を付けて出現したワルキューレに耳を引っ張られ、ジークはずるずると海岸のパラソルの方へ連行されてしまう。ベスパがキョトンとその様子を見つめていると、入れ違いにパピリオが駆け寄ってきた。

「大丈夫でちゅかベスパちゃん」
「ああ、なんともないよ」
「はいこれ、ジュースでちゅ」
「あぁ……冷たくて美味しい」
「何だかんだで上手くいってるみたいでちゅね。ジークと」
「ぶはっ!?」
「んーんー、分かりやすい反応でちゅねー。でも安心してくだちゃい。私は邪魔したりしまちぇんよ」
「ごほっ、ごほっ……いきなり何言い出すんだよ、もう」
「嬉しいんでちゅよ」
「え?」
「だって、ベスパちゃん……最近よく笑うようになりまちた」
「パピリオ……」
「今までずっと、寂しそうな顔してる事が多かったから」
「あんたは優しいね」
「当たり前でちゅ。私達、家族なんだから」
「そうだね……ありがとう」

 この世界でたった二人きりの家族。過ごした時間も、思い出も決して多くはなくても。確かにその心は繋がっていたことが嬉しくて。可憐なる姉妹は、手を繋いだまま輝く海辺を見つめていた。




 やがて太陽も西の水平線に沈み始め、東の空から夜の闇が静かに染みわたり始める。海で泳ぐ人影はほとんどいなくなり、変わって今度は浴衣を身に纏った人々が海岸に集まり始めていた。海辺の道路沿いには夜店や提灯が並び、古くから伝わる日本の風情を変わることなく演出している。そう、幸運にも今夜は夏祭り。
 妙神山一行も例に漏れず、それぞれ浴衣を着て祭りに繰り出していた。

「小竜姫、ひとつ聞きたいのだが」
「はい、なんでしょう?」

 ワルキューレは自分が着ている白地に朱の金魚模様の浴衣を見つめながら、小竜姫に尋ねた。

「なぜこのような衣装に着替える必要がある?」
「なぜと言われても……古くからの伝統ですし、夏祭りの制服のようなものです」
「制服か……うむ、制服ならば仕方ない。だが、慣れない衣装は動きにくいな」
「そこは我慢してください。でも、似合ってますし可愛いですよ」
「お、おだてても何も出ないぞ」
「くすくす……」

 少し顔を赤らめるワルキューレと、それを見て笑う小竜姫。二人の前には夜店を興味津々に見て回る天竜童子とパピリオの姿もある。鬼門の二人は彼らのお小遣いを捻出する財布代わりに成り果てていたが。
 ふらりと戻ってきた斉天大聖は意外にも大人しくしており、カップ酒をちびちび飲みながら子供達のはしゃぐ姿を、目を細めて眺めていた。
 その集団から少し離れて、ベスパとジークは並んで歩いていた。ジークはシンプルな灰色の浴衣、ベスパは黒地にあでやかな牡丹の花が咲く浴衣に身を包んでいる。

「あ、あのさ」
「なんだ?」

「自分で言うのも何だけど……これって似合ってるのかな。私、こういうの着たことなくて」
「似合ってるさ。少なくとも、私はそう思うが」
「そ、そう言ってもらえるとホッとするね。ありがと」
「は、ははは」

 いつになくしおらしい反応を見せるベスパに、ついジークまで赤くなってしまう。何か話そうと思うのだが、何故か照れてしまって上手く言葉が出てこない。外見は大人のはずの二人だが、すっかりストロベリィな空間にはまってしまったようだ。
 そうこうしているうちに、やがて盛大な打ち上げ花火が始まった。色とりどりの瞬きが、星空のキャンバスに現れては消えていく。人々はそれを見上げて喝采し、真夏の夜を目一杯に楽しんでいた。この瞬間だけは、人間も、神も、魔物も。全てが変わりなく。瞬きするほどの永遠に思いを馳せているのだから。
 ふと、花火を見上げる目を横に動かしてジークはベスパを見た。その表情はどこか切なく、瞳には憂いの光が満ちているように感じられた。

「何か思い出したのか?」
「花火ってさ、眩しく燃えて輝いて……すぐに消えてしまう。誰かに似てると思わない?」
「……ああ、よく似ているのかもな。彼女に」

 恋にその身を燃やし、全てを捨てて輝いて。そして儚く消えた姉の事をベスパは思い出していた。
 本人はあれで満足だったかも知れないが、こうして生き延びた自分達がそれを思い出すたびに胸が締め付けられてしまう。もしかしたら、もっと違う道が――消えてしまうことなく、幸せに生き続ける事が出来たのではないかと。そんな気持ちのまま沈黙に身を任せていると、心の奥底が疼いて切なくて。言葉では表せない気持ちを持て余して夜空を見上げていると、やがて魔族の青年がポツリポツリと話し始めた。

「ほんの一瞬。闇の中でわずかに輝くだけの、花火という遊びを、人はずっと昔から伝えてきたが……その理由がなんとなく理解できたよ」
「どんな風に?」
「たとえ一瞬にせよ、全てを燃やして輝く光は美しい。その一瞬に秘められた美しさを、人間は忘れることなく心に刻み続けてきたんだろう」
「一瞬を忘れることなく……か」
「我々魔族のように長く生きる種族は、そういうものをつい見過ごしてしまう。だからそれを知る人の心もまた、眩しく見えるんだろう」

 あくせくと過ごす毎日の中で、やはり忘れてしまっていたのだろうか。今というこの瞬間に、情熱の花を咲かせて生きる事を。そして、その事を私なんかよりずっと前に気付いていた女(ひと)がいた。今にして思えば、彼女の魂のなんと美しく、強く、気高かったことか――ジークの言葉を聞きながら、ベスパはこみ上げてくる感情に胸を焦がす。そして一粒の雫が、静かにこぼれた。

「姉さん……」
「彼女は、自分の選んだ運命を後悔してはいなかった」

 ジークの問いに、ベスパは黙ったまま頷く。

「ならばそれでいいのさ」
「そう……だね」
「彼女と我々は違う。だが、いつか同じように全てを賭けて輝きたいと思った時……躊躇う事がないようにありたいものだな」
「うん……いつもありがとう、ジーク」

 身体を寄せ、ベスパは隣にある肩に頬をうずめる。ジークは黙ったまま、それを受け止めて。花火が終わるまで、二人はじっと夜空に咲き誇る光の華を見つめ続けていた。
 夏の思い出。
 これから二人、この季節が来るたびに思い出すだろう。
 全てを美しく照らすこの一瞬が、永遠に続けばいいと――




「ええい、放せ貴様ら! こらベスパ、ジーク! 私の前でいちゃいちゃするんじゃあ――!」
「あ、暴れるんじゃないでちゅよこの過保護姉!」
「邪魔をしては野暮ですよ、聞き分けなさいワルキューレ」
「おおっ、ものすごいパワーじゃ! お前余の家来にならんか?」

 その後ろの方で、ワルキューレを止めるために必死になっている連中がいたのはここだけの話である。

「青春じゃのう、甘酸っぱいのう、ふぉふぉふぉ」

 斉天大聖は一人、遠い目をして笑っている。

「笑ってないで手伝えーーー!」