たからもの

 軽やかなリズムで口ずさむ歌声は、それだけで美神除霊事務所の雰囲気を朗らかなものに変えていく。穏やかな陽気に包まれた昼食の後、おキヌは鼻歌を歌いながら食器を洗っていた。
 慣れた手つきで箸や茶碗をすすぎ、水気を拭く。そして、きちんと整理された食器棚にそれらを片付けると、満足そうに微笑んだ。
 おキヌは事務所に居候させてもらっている代わり、台所を含めた家事全般を預かることになっていた。といってもそれは、生き返る前の幽霊時代と何ら変わらない光景であり、おキヌはこの場所が好きだった。
 台所に立つのは楽しいし、なにより心が満たされる場所だから。料理を作り、みんなに食べてもらうこと。おかずを取り合い、自分の料理に舌鼓を打ってくれる大事な仲間たち。その全てが温かく、愛おしく、そしておキヌは幸せだった。

 食後の紅茶を入れようと戸棚を開いたおキヌは、棚の奥に見覚えのある物を見つけた。
 お中元などでよくある『あられ』の四角い缶である。
 缶を引っ張り出して蓋を開けてみると、中にはわずかなお金と線香の束がひとつ入っていた。

「わあ、懐かしい。まだ残ってたんだ」

 このあられの缶はおキヌが幽霊時代に、給料や私物をしまっていたもので、当時令子が捨てようとしていたのを譲ってもらった憶えがある。
 蘇る懐かしさに口元を緩めていたおキヌは、自分を呼ぶ声に我に返り、紅茶の用意をしてリビングに戻っていった。
 大きなソファーの上では、満腹になったシロとタマモが互いの身体に足を乗せるようにして寝息を立てている。時々『すぴー』とか『う〜ん、バカ犬』などと面白い寝息や寝言も発しているが、こうして一緒に寝ているのは仲が良い証拠である。おキヌは二人にタオルケットを掛けてやり、令子と紅茶を飲みながら雑談に花を咲かせていた。




 
 夜も更け、勉強机に座るおキヌの目に映っているのは、数学の方程式でも英語の単文でもない。
 彼女の机には、昼間見つけたあられの缶が置いてある。
 中に入っているわずかなお金を見つめながら、おキヌは幽霊時代の暮らしを思い出していた。
 思い出せば出すほど、令子や横島との出会いは可笑しいもので。
 二人は今まで見てきたどんな人間よりも、個性が強烈だった。
 そして呪縛から解いてくれたばかりか、行き場の無くなった自分を傍に置いてくれた。その親切に感激して、一生懸命働こうと思った。
 日給は三十円。
 当時はその意味をあまり理解していなかったし、幽霊の身で給料をもらえるだけでも嬉しかった。幽霊には自分のことでお金を使う用事もほとんど無かったから、いくらか貯まった小銭は花の種や足りない食材の買い足しなどに使われていたが、

(そういえば、横島さんにお金を貸してあげようとしたことがあったっけ)

 給料をもらいそびれ、空腹に錯乱する横島を見かねたおキヌは、その時の全財産九十円を横島に差し出した。結局は受け取ってもらえなかったが、それが横島の部屋に食事を作りに行くきっかけになり、その習慣は生き返った今も変わることなく続いている。
 当時はあまり豪華なものは作れなかったけれど、おキヌの素朴で家庭的な料理を横島は好んだ。普段赤貧にあえいでいる彼の食欲は旺盛で、何度もおかわりをするから、作った身としても張り合いがあるし、また彼のために料理を作りたくなってしまう。
 横島はいつでも自分の料理を残さず平らげてくれる。
 そしていつも、美味しいと言ってくれる。
 それが何よりも嬉しかった。
 いつからか横島に対する思いは、恋と呼べるものに変わっていた。幽霊の身でそれをはっきりと自覚するのは難しいことだったが、共に過ごした時間は温かい気持ちになれたし、部屋で一緒に過ごしている時には、他ではあまり見られない素顔を多く見せてくれた。

「楽しかったなぁ、あの頃。今はもっと毎日が素敵だけど。うふふ」

 令子や横島はおキヌを大事にしてくれたし、おキヌもまた、二人の事が大好きだった。
 あれから奇跡のような出来事があって、自分は生き返る事ができて。
 そして――自分は今、横島に特別な気持ちを抱いている。
 恩返しの意味も込めて、彼に何かしてあげたいと思うおキヌは、缶の小銭に目を落とす。
 わずかばかりの給料だけど、かけがえのない幽霊の日々の証。

(でも……)

 お金は使うもの。他の何かに変えてこそ意味を持つ、名の通りの代価なのである。このわずかなお金で何が買えるだろうか。できればずっと残る物がいいけれど。

(そうだ!)

 またとない閃きに、おキヌの口元は自然と綻んでいた。




 数日後。
 横島の部屋におキヌが訪れたときの事。

「こんにちは、お邪魔しまーす」
「いらっしゃいおキヌちゃん」
「今日もうんとおいしいごはん作りますねっ」
「いつも悪いねー。ほんと、感謝してるよ」
「うふふ、いいんですよ。好きでやってますから。あ、それと――」
「ん?」
「これ、お小遣いで材料買って作ってみたんです。よかったらもらってください」
「へえ、このぬいぐるみよく出来てるなぁ。俺と、おキヌちゃんだ」
「はいっ」
「あれ? 離れないように縫いつけてある」
「え、えっと……」
「……」
「ご、ごめんなさい、いきなりこんなの渡しても、迷惑ですよね」
「いや、嬉しいよ」
「えっ」
「いや、俺って生まれてこのかた、こういうプレゼントもらったことないからさ……すげー嬉しいよ。ありがとう」
「よかったぁ」
「大事にするよ、これ」
「よろしくお願いしますね。できれば、その人形みたいにずっと――」

 横島は言葉通りぬいぐるみを大切にし、決して粗末にすることはなかった。
 あるとき部屋に友人が訪れた際、ぬいぐるみのことを尋ねられて『俺の宝物なんだ』と答えたのだという。




 おキヌの部屋には、今でもあられの缶が大事に保管されている。何の変哲もないただの入れ物だけど、幽霊時代と今とを繋ぐ大切な宝物。
 当時のお給料は今、違う形となって愛しい人の宝物へと形を変えた。
 そして今、缶の中には残った十円玉が三枚、静かに眠っている――