若さゆえに間違うこともある
美神除霊事務所には女性が三人寝泊まりしている。
氷室キヌと人狼のシロ、そして妖狐のタマモ。寝食や衣類の洗濯については、おキヌが中心になって当番制を取っている。だが、人数が増えるということは仕事の量も増えるということで、そうなるとミスのひとつや二つが発生しても不思議ではない。
――そう、発端は些細なミスだったのだ。
その日はタマモが洗濯物を運んでいた。事務所には令子が買った洗濯機と乾燥機があるので、衣服や下着を干して横島に見られるという心配はない。横島のスケベは事務所の全員が承知していたし、洗濯も念のため彼が帰宅してから行うことになっている。
珍しく洗濯物がかさばってしまったその日、タマモは衣類が一杯に入った洗濯籠を胸の前で抱え、廊下をえっちらおっちら歩いていた。
「ふう、重くはないけど……前が見えにくいわね」
「何やってるんだタマモ」
「きゃーっ!?」
「いや、きゃーって……」
突然話しかけてきたこの声は紛れもなく、横島忠夫その人であった。視界を遮られているタマモはその接近に気が付かず、つい素っ頓狂な声を出してしまった。
「な、なんであんたがここにいるのよっ。さっき帰ったはずじゃ――」
「いや、アパートの鍵を置き忘れててな。用も済んだし、もう帰るトコだ」
「脅かさないでよ、まったく。私は忙しいんだから、あんたの相手してるヒマはないの」
「へいへい、そりゃ悪うございました」
「そこに立ってると邪魔。どいて」
「お、おう」
横島が廊下の壁に沿って道を譲ると、タマモはすたすたと歩いて行ってしまった。ちなみに、正面から見た時は洗濯物の山に足が生えて歩いているように見えたのだが、タマモの自尊心のために黙っておこうと横島は思った。
「さて、あまり長居してると他の連中にも怒られそうだしな。さっさと帰るか」
踵を返した横島が踏みだそうとした瞬間、足元に何かが落ちているのが目に入った。
「こっ、こ、これは……ッ!?」
白い三角形。控えめだが可愛らしいフリル。
紛れもない女物の下着。
それが瞳に映り込んだ瞬間、横島の脳は分析を開始していた。
シロの物ではない。元気印な彼女の趣味とは少し違う感じだし、何よりサイズが違う。横島の眼は一度目にした相手のスリーサイズを決して間違えないのだ。タマモの物か? いや、サイズの理由からこの案も却下だ。
となれば、
「お、おキヌちゃんの……」
静寂が広がる廊下に、ごくりと生唾を飲み込む音がする。横島とて、令子の高級なランジェリーを今までに何度も拝んでいるのだが、これはまた別の衝撃だった。
(お、落ち着くのだ横島忠夫。目の前にあるアーティファクトはあえて触れることがない……いや、穢してはならぬ禁断の果実! それを好色な目で見ていいのかッ!)
そう自問しつつ、異常に興奮してしまう横島がそこにいた。なぜだ。何故こんなにもオレは魅せられてしまうのか――その答えに懊悩しているとき、もう一人の自分が叫ぶ。
(だがそれがいい)
ダメと言われればやりたくなるのが人の性(さが)。しかもこれは自ら禁じていた聖域でもある。そのタブーに足を突っ込んでみたい欲求に、横島少年はとうとう逆らうことが出来なかった。これも若さゆえの過ちというものかもしれない。
「ふふ、ははは……ついに手にしたッ! 俺は今、何かを制した気がするッ!」
パンツを握りしめ、横島は一人笑みを浮かべる。他の人間には分からぬ妙な達成感が、彼を包み込んでいた。だが、それが同時に冷静な判断力をも奪っていることに彼は気付いていなかった。
「あれっ、どうしたんですか横島さん。もう帰ったんじゃ?」
背後から突然聞こえた声に、横島は凍りつく。錆び付いた歯車のようにぎこちなく振り返ると、そこにはパジャマ姿のおキヌがいた。
「か、鍵を忘れたから取りに来てもう帰るところなんだそれじゃあ!」
横島は一気にまくし立て、一刻も早くその場を立ち去ろうとする。だが、挨拶のつもりで振った手のひらから、白い三角形がひらひらと舞い落ちてしまった。
「はうあ!?」
「それって……よ、横島さん……?」
真っ赤に染まるおキヌの表情。震える声色。
全てが最悪の方向に向かっていると横島は即座に理解する。
「いいい、いや違うんだ! これは偶然、偶然落ちてただけなんだ!」
「よ、よ、横島さんのばかぁ!」
ぱちーん!
事務所の廊下に、平手の音が響き渡った。
「あ、あああああァァァァ!?」
この世の最後の砦、おキヌに頬を叩かれた横島は、すがるものを失って真っ白になってしまった。
世界が一気に闇に包まれていく。
今まで積み上げた物があっけなく消えてしまう。
こんな気分は、そう――ドラ○エで竜王に世界の半分をくれと言って騙されたとき以来だった。
「死のう……」
ナチュラルに出てきた次の言葉はこれだった。
事務所を飛び出し、横島は幽霊のようにふらふらとさまよっていた。もう生きる希望が見いだせない。歩道橋に通りかかると、手すりの上から身を乗り出した。父さん母さん、先立つ不幸をお許し下さい。父さんは浮気を何とかしろこのやろう。母さんは息子にもう少し優しくなってください。仕送りが少ないんだよこんちくしょう、しまいにゃ餓え死にするぞ。
思い出したら腹が立ってしまい、横島はその場で十分近くも怒りに震えていた。
そんなことをしているうちに、彼はある重大なことを思い出す。
「俺が死んだら、誰か遺品を引き取ってくれるかな……山のようなゴミはともかく、エロ本は。タイガーが引き取ってくれるか、うん。パリパリのしわしわで申し訳ないが……って、あああ!? もっとやばいものがあった!」
脳裏にあるモノの存在を思い出した横島は、乗り出した身を引っ込めて頭を抱える。
「死ねん……あれらを処分するまで、俺は死ぬわけにはいかんッ!」
理由はともかく思いとどまった横島。急いで自宅へと帰ってみると、なぜかドアが開いて明かりが漏れている。覗き込んでみると、いつの間に来ていたのかおキヌが部屋掃除を敢行していた。
「あ、お帰りなさい横島さん」
「い、一体何を? それにこんな時間に俺の部屋に来るなんて」
「さっきは叩いたりしてごめんなさい。恥ずかしくてつい……」
「いや、あれは俺が悪かったよおキヌちゃん」
「横島さん」
見つめ合う二人。流れる甘い雰囲気。そしておキヌは、すっ、と横島にあるものを差しだした。
「あの、これって何なんですか? 燃えるごみにだしていいんでしょうか?」
紙のカップ。その中にはぷるぷるした半透明の物質が詰まっており、中央に穴がこじ開けられている。血の気が引いていく音を、確かに横島は聞いた。
「うわああああ!? よりによって一番見られたくないカタクリコンエックスが白日の下にぃぃぃぃッ!」
「カタクリ……なんですか、それ?」
おキヌの質問はもはや、横島の耳には届かない。これ以上おキヌにこんなモノを持たせては、彼の精神が耐えられない。世の中には知らない方が良いこともたくさんあり、闇は闇のまま葬り去る方がおキヌのためなのだ。横島は慌ててそれを取り上げようと腕を伸ばす。
「わっ、何するんですか横島さん!?」
「いいから手を離してくれおキヌちゃん! これは君が持ってちゃダメなんだよッ!」
「きゃあっ!」
もつれ合った二人は、おキヌの上に横島が覆い被さるように倒れ込んでしまう。幸い二人とも怪我は無かったが、予期せぬ密着に赤面し、胸の鼓動が一気に高鳴っていく。おキヌの体温、そして息づかいを感じる。熱い――赤熱する炭火のように、互いの芯から燃え上がる何かがあった。
「ごめん」
「横島さんの手……熱い」
「お、おキヌちゃんっ」
「ドキドキ……します」
秋も深まった季節の夜は寒い。そんな寒さすら、二人は忘れてしまう。そっと絡んでくるおキヌの指に、横島も指を絡ませる。汗が滲む。逸らしているおキヌの瞳が潤んでいく。横島がもう一度名を呼ぶと、おキヌは火照った顔を向けた。
「お、俺」
「横島さん――」
互いの唇が近づいていく――
がたんっ。
「!?」
物音に飛び起きた横島の視線の先には、玄関に立つタマモの姿。何故か彼女も頬を赤らめ、視線を泳がせてもじもじした表情を浮かべている。
「えと、その。来ちゃダメ……だった?」
アパートの部屋。部屋には横島とおキヌだけ。しかも押し倒す格好で、タマモの顔は赤い。横島は引きつった表情で、金魚のように口をぱくぱくさせながら尋ねる。
「……見てたの?」
「うん」
「い、いつから?」
「お帰りなさいのあたりからずっと」
「全部じゃねぇかあああああ!?」
横島はおキヌから離れると、タマモを部屋に引きずり込んで座らせた。
「っていうか何でお前がここにいるんだ!」
「おキヌちゃんがあんたに謝りたいって言って、夜道を一人歩きさせるのも危ないからって美神さんが」
「それで、タマモちゃんにはまとめたゴミを置いてきてもらってたんです」
「ほ、他には何も言われてないだろうな?」
「横島がヘンなマネしてたら燃やしていいって」
「違う、断じて違うぞ! むしろ俺はおキヌちゃんを守るために――!」
「強引に押し倒して、なし崩し的に発展してたよーな……見てる方までドキドキしたわよ」
「キツネうどん三杯ッ!」
横島が突き出した三本指の向こうで、タマモはゴクリと唾を飲み込む。
「お前は何も見なかった……いいな?」
「取引が上手ね。いいわ、黙っててあげる」
「これはおキヌちゃんの名誉にも関わる。忘れるなよ」
「あんたが約束守れば、何も言ったりしないわ」
「シロにも内緒だぞ」
「八つ当たりされるのは私なんだから。言うはずないでしょ」
タマモにちゃんと約束を取り付けた横島は、心底安心してため息をつく。ガックリとうなだれたその後ろで、おキヌは少しだけ残念そうな顔をしていた。
「横島さんは夕食まだなんでしょ? 材料買ってきたから、ぱぱっと作っちゃいますね」
「うう……おキヌちゃんはええ子やなぁ」
「約束忘れないでよ」
「……わーってるってば」
その日の夕食は身体の温まる汁物で、色々とくたびれた横島にとって嬉しいメニューだった。
だが横島は知らない。
その時は歩みを止めずそっと、しかし確実に近付いていることを。
翌日。
「何があったか知らないけど、おキヌちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ横島クン」
「すんまへん。反省してます」
「まあいいわ。それじゃ今日も仕事に気合い入れるわよ!」
「おっす!」
横島は令子に軽い注意を受けたものの、それ以上ツッコミを入れられなかったことに胸をなで下ろしていた。タマモは約束通り黙っていてくれたらしい。出勤する前に買ってきたキツネうどんをすすり、タマモはテーブルでご機嫌である。みんなが幸せになるなら、この程度の出費は軽い物だ。
「ねえ、横島。ちょっと聞きたいんだけど」
「ん、ああ」
たっぷりダシの染みこんだあぶらあげをちびちび食べていたタマモが手を休め、尋ねる。
「片栗粉えっ○すって、なに?」
「ぶっはあっ!?」
ピシッ、と空間に亀裂が入る音を横島は聞いた。おキヌもシロもキョトンとしていたが、令子は違う。
「よ〜こ〜し〜ま〜!」
「違っ、違うんや美神さん! 誤解なんやーーーッ!」
「年頃の娘になんてものを教えてんのよドアホーーーーーーー!」
若さゆえの過ち。
誰しも間違うこと、魔が差すことはある。
まあ、そんなものを部屋に置いておくのもかなり問題なのだが。
ズタボロに制裁を受けた横島は事務所から蹴り出されてしまう。
さらに追い打ちをかけたのが、おキヌがインターネットでそれを検索してしまった事だった。
翌日から当分の間、横島はおキヌに口をきいてもらえなかったという。
(横島さんのばか……あんなものに頼らなくたって)
と、おキヌが呟いた――かどうかは分からない。
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