絹帯怪奇譚

 丑三つ時。
 明かりの落ちた部屋で、カーテンがふわりと動く。
 窓は閉じている。風が吹くはずはない。

 がさ……

 闇の端で、細長い影が蠢いた。
 それは絡み合うようにもつれて膨れ上がると、やがて人の形に変わる。
 カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされたベッドには、茶色に髪を染めた若い男が眠っていた。

「……ん?」

 人の気配に目が覚めた男は、身体を起こして人影を見る。

「なんだ、お前か……泥棒かと思ったじゃないか」

 男にとって人影は見知った相手に見えたらしい。だが、それは何も答えない。

「仕事で忙しいんだよ。今度相手してやるから、さっさと帰れ」

 がさ……がさがさ……

 人影が揺らめく。
 足音も立てずに近づく影は、布が擦れるような音を立てて『解け』覆い被さった。

「ぐえっ」

 絞り出すように、男の呻き声が吐き出される。

 ごりっ……めきめき……みしっ……

 それっきり、部屋から音が消えた。
 呼吸の音さえも――




 骨まで冷えるような寒さの続く一月の、薄暗いある日の午後。
 都内の一角にあるアパートで、男の変死体が発見された。

「――死因は胸部圧迫による窒息。それから全身が雑巾を絞ったみたいにねじれ骨が砕けていました」

 最初に通報を受けたという警察官は、青ざめた顔で答える。
 ICPO超常犯罪課の西条輝彦は、現場検証が行われている現場に足を運び、状況の説明を受けていた。

「続けてくれ」
「死亡推定時刻は午前三時頃。ドアも窓も鍵が掛かっていて密室状態だったそうです」
「第一発見者は?」
「被害者と交際していた女性です。被害者が死亡した日の午後一時頃、彼に会いに来たが名前を呼んでも返事がなく、合い鍵を使って部屋をに入ったところ、遺体を発見したとのことです。証言に矛盾はなく、彼女のアリバイも裏が取れています」
「目撃情報は」
「それがまったく。周辺で不審者を見た、あるいは物音を聞いたという者もおらず、足跡や指紋などの痕跡も一切発見されていません。それに、この殺し方……人間業じゃありませんよ」
「やはり悪霊、あるいは物の怪の類か」

 一ヶ月程前から、同様の状態で男性が変死するという事件が相次いでいた。当初は警察が捜査をしていたが、事件の異常性と手がかりの無さから霊的な存在が関与していると判断され、ICPO超常犯罪課――通称オカルトGメン――の西条が呼ばれた。
 彼は事件が発生するたび現場に飛び、霊気や妖気の鑑定、現場検証、被害者の身辺調査を行う。しかし、一流の霊能者に名を連ねる程の感覚を持ってしても、今回の事件は霊的な証拠がほとんど発見できなかった。
 そうしている間にも事件は連鎖的に拡大し、人員が極端に少ないオカルトGメンで調査を続けるには限界が生じ始めていた。
 西条は手帳に事件の状況を書き留めると、携帯電話を取り出してメモリを呼び出す。
 ある人物に捜査の協力を依頼するためだ。
 そして、日本最高のGSと言われる美神除霊事務所へ依頼が届く。




 部屋の中はカーテンが閉じられて薄暗く、物音ひとつしない。冬だというのに部屋の空気はどこか湿っぽく、淀んでねっとりまとわりついてくる。
 ここで、一人の男がねじれて死んだ。
 いかなる怪異が現れたのか――部屋の隅、光の当たらぬ暗がりで、がさ……と何かが蠢き闇に溶けた。

「――なるほど、確かに妖怪の仕業みたいね」

 美神令子は鋭い感覚で何かを感じ取り、呟く。最後の現場であるアパートも、すでに警察が捜索した後で物的な証拠などは残っていない。が、霊能者にとっては更なる証拠――すなわち霊気や妖気――を得ることが出来る。

「けど、これじゃ西条さんが行き詰まるのも無理ないわね。私でもほんのちょっぴりしか妖気を感じ取れないもの。シロやタマモ呼んだ方が良かったかしら」
「何か、やたら寒いッスねこの部屋……窓は閉まってるのに」
「ここで何があったんでしょうか――」

 調査に同行していた横島もおキヌも、同様に肌で何かを感じ取っているようだった。当然、令子同様にぼんやりとした印象でしかなかったが。

「――!?」

 突然背筋がゾクッとして、おキヌは横島の背中にくっついて部屋を見渡す。ふと押し入れの方に目をやると、視界の隅で何かが光る。よく見れば、美しい模様が織り込まれた錦布のような物が押し入れの隙間からはみ出していた。

(綺麗……でも、何かしら?)

 おキヌは押し入れの方に近づいて屈み込むと、布をつまみ上げようと手を伸ばす。

 ――シュルッ

「え?」

 布が動いた。
 それは意志を持つが如くおキヌの腕に巻き付くと、ぴったりとくっついて離れない。

(やっ、何これ――!?)

 悲鳴を上げようにも何故か声が出ず、腕を引っ張っても布がものすごい力で引き返してきて動けない。
 押し入れの前でしゃがみ込んだままのおキヌに気付いて、横島が背中越しに声をかけた。すると、今までビクともしなかった錦布はするすると離れ、押し入れの奥に消えていく。呆気にとられていたおキヌは我に返ると、慌てて押し入れを開けてみる。しかし、その中には住人の私物などが無造作に詰め込まれているだけで、綺麗な錦布などどこにも見あたらなかった。

「どうしたんだい、おキヌちゃん?」
「い、いえ……布が」
「布?」

 横島も後ろから押し入れを覗き込んでみたが、それらしい物はどこにもない。

「何もないみたいだけど」
「あ、いえ……きっと気のせいです。ごめんなさい」
「うーん、まあいいか。それより、美神さんが場所を移すってさ」
「はい、わかりました」

 おキヌは薄気味の悪い体験を胸の奥に隠したまま、令子の指示に従って部屋を後にした。
 それから数時間、見鬼くんを持って令子達は現場の付近を探索してみたが、手がかりはまったく掴めぬまま時間だけが過ぎていった。




「はーっ、見つかりませんねぇ美神さん」
「そうねぇ。歩き疲れちゃったし、日も暮れ始めて寒いし……今日はこのくらいにしましょうか」
「さんせーい」

 横島もおキヌも同じ意見だったらしく、白い息を吐きながら手を上げていた。
 帰り道、冷えてしまった身体を温めるため令子はコンビニに立ち寄る。ホカホカの中華まんを数個買うと、おキヌと横島に手渡した。

「これはおごりよ。今回の相手は妖気が弱いのか、正体が掴めないわ。寒さで気合い入れにくいかも知れないけど、油断しないでね二人とも」
「はいっ」
「み、美神さんが俺におごりで肉まん……お、おおおーッ!」

 横島は一人異常に興奮し、ブルブルと震えて手のひらの肉まんを凝視する。

「落ち着け、落ち着くのだ横島忠夫。肉まん……そう、これは肉まんだ。金に汚い美神さんがこれをおごりで渡すと言うことはすなわち、あのぽよんぽよんのたゆんたゆんはアナタのものよと暗に告白しているのではあるまいか!? きっとそうだそうに違いないっていうかあれは俺のモンだとゆーわけで好きにしていいんですね令子ーーーッ!」
「脳みそが壊死してるのかお前はッ!」

 バストめがけて突っ込んできた横島に、キックの鬼も真っ青なひざ蹴りが炸裂する。横島は冷えたアスファルトに崩れ落ちたものの、恍惚とした表情を浮かべている。

「そんなもん物理的にあり得ないんだから、馬鹿な妄想してるんじゃないっての」
「うう〜、あれは俺のや……ボインは忠夫ちゃんのために……(がくっ)」
「もう、横島さんったら」

 さすがにおキヌもフォローしかねた様子で、頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまう有様だった。




 事務所に戻ってすぐ、令子と横島はテーブルを挟んで頭を付き合わせる。
 事件の資料に目を通し、犯人に繋がる情報がないか調べていた。

「――それにしても、犯人の目星がつかないことには調べようがないッスね」
「とりあえず、分かっていることを整理してみましょう。まず被害者は、二十代から五十代まで年齢にばらつきはあるものの、全て男性ね」
「全員男ねえ。何か共通している点があるんじゃないスかね? 知り合いだとか」
「被害者の身辺調査は西条さんが進めてるらしいけど、とりあえず被害者に接点は無くて、まったくの他人だそうよ。会社役員、フリーター、教師にホスト。見事にバラバラね」
「でも手当たり次第ってわけでもないでしょう」
「ええ、犯人は何らかの条件に従って犯行を重ねていると思うわ。しかし、それが何なのか――」
「分からないうちは手の打ちようも無し、か」

 結局手がかりらしい物は無しという結論が出たところで、令子と横島はため息をつく。
 難しい顔をした二人に、おキヌが入れたての温かい紅茶を持ってきて微笑む。

「早く手がかりが見つかるといいですね」

 テーブルに紅茶を並べ終えたところで、おキヌはお茶菓子を忘れていたことに気付いた。茶菓子のしまってある戸棚に手を掛けようとしたとき、そこにあるものを見ておキヌは凍りつく。

(そんな、どうして!?)

 戸棚の足元にあるわずかな隙間から、錦布の端が伸びていた。
 おキヌとて霊能者の卵である。幽霊や妖怪が近くにいればすぐに分かるし、事務所には結界が張ってある。なのに、今までまったく気が付かなかった。
 それだけではない。
 錦布を見た瞬間から、身体が金縛りにあったように動かない。錦布はおキヌの足首に巻き付くと、スルスルと足を登ってくる。まるで生き物のように蠢く布は冷たく、おぞましかった。

(また声が出ない――!)

 助けを求めようと、唯一動く視線を令子達の方に向けるおキヌ。テーブルでは令子と横島が冗談交じりの言葉を交わしながらくつろいでいて、こちらを気にしている様子もない。

(気付いて、こっちに気が付いて!)

 懇願するような眼差しで見つめても、二人は気付かない。
 黒く渦巻く感情が、おキヌの内に染み広がる。
 今まで感じたことも抱いたこともない、激しく暗い感情が胸をえぐった。
 令子と横島を見ていると切なく、いたたまれない気持ちばかりが膨らんでくる。
 そうしている間も、足に巻き付く嫌な感触はじわじわと登り、太腿にまで迫っていた。

(気持ち悪い……吐き気が……)

 目眩がして、おキヌの意識は急速に遠のいていく。
 おキヌの倒れる音を聞いた二人は慌てておキヌに駆け寄るが、錦布はやはり消えていた。




 深夜。
 明かりの消えた部屋で、おキヌは寝付けないでいた。
 昼間と、そして気を失う前に起こったあの体験は一体何だったのだろうか。隙間からはみ出していた錦布が動き、巻き付いてきたのは事実だ。しかし、自分以外に誰もそれを見ていないし、探そうにも忽然と消えてしまう。いくら考えてもこれ以上の手がかりがあるわけでもなく、おキヌは考えるのをやめる。
 明日になったら令子に相談しよう。事件の手がかりになればそれでいい――
 ベッドの中で目を閉じているうちに、おキヌの意識は闇へと沈み始めていく。

 夢を見た。

 横島が令子に飛びかかっていく夢。
 横島が求愛の言葉と共に令子を抱きしめようとして、返り討ちに遭う夢。
 横島が令子と楽しそうにお喋りをしている夢。

 どうして私はそこにいないの?
 どうして違う方ばかり見つめているの?
 どうして振り向いてくれないの?

 どうして――!




「――ッ!?」

 声にならない悲鳴を上げて、おキヌの意識は現実に引き戻される。
 ひんやりとした汗が全身に滲んでいて気持ち悪い。
 息苦しくて、喉が渇く。
 身体を起こそうと力を入れてみたが、動かない。
 まるで縛り付けられたように、そこから動けなくなっている。
 ――いや、違う。

(本当に縛られてる……!?)

 窓から差し込むわずかな月明かりに光る、金の糸。細長い布がおキヌの身体に巻き付き、完全に自由を奪っていた。ベッドを幾重に取り巻くものは、錦の刺繍が施された美しい帯。その端が鎌首をもたげるように起きあがると、おキヌの目の前に近づいた。

(いや……助けて、助けて……美神さん、横島さん、助け――!)

 帯は音もなくおキヌの顔に巻き付き、全身を包み込んでいく。
 おキヌの悲鳴は、擦れあう帯の音にかき消され――




 翌日。
 おキヌは体調を崩したとのことで、部屋に籠もったままだった。
 令子はおキヌを休ませ、シロとタマモをメンバーに加えて捜査の続きをすることにした。

「フンフン、確かに妖怪の匂いはするでござるが」
「部屋から外に出た形跡がないわ。ここで匂いが消えてる」

 訝しそうに眉をひそめ、シロとタマモは現場のアパートで四つん這いのまま答えた。

「他はこの部屋の主と、誰か……女性の匂いが残ってるくらいでござるな」
「ま、そっちは恋人って所かしらね。やれやれ」
「どうなってるんスかね、美神さん?」
「いくら神出鬼没だからって、あの子達の嗅覚に掴まらないよう消える芸当が出来る妖怪なんてそうはいないわ。何か見落としてるのよ。でなきゃ――」

 予定ではここでシッポを掴んだ後、横島及びシロタマを使って犯人の妖怪を追い込み、止めは自分が刺してサクッと解決。暖房の効いた部屋でのんびり報酬の札束を数える――という流れだったのだが。

「このクソ寒いのに地味に歩き回るハメになるじゃないのっ!」

 頭を抱え、心底嫌そうな表情で令子は叫ぶ。あきれて目が点になった横島らを他所に、令子はクルリと背を向けて玄関へ向かう。

「これからどうするんですか美神さん」
「二手に分かれてもう一度現場を捜しましょ。横島君はシロと、私はタマモと。何か手がかりを見つけたらすぐに連絡するのよ」
「わかりました。ところで、西条のヤローはどこにいるんです? 俺達に仕事押しつけて」
「被害者の身辺調査をしてるって言ったでしょ。もうすぐ連絡があるわ」

 コートのボタンを締めてポルシェに乗り込んだ令子とタマモを見送ると、横島は自分が担当する地域の地図を広げて確認する。

「歩くにゃ少し広いなあ。ここからアパートまで遠くないし、自転車取りに行くか」
「サンポでござるかっ」
「仕事っ!」

 目をキラキラさせるシロにきっぱり言い放つと、横島は自分のアパートへ向かった。




「どう、何か感じられる?」
「……ダメね。さっきの現場より時間が経ってるから、完全に妖気が消えてる」

 令子はタマモを伴って他所の現場を洗い直していたが、やはり何の情報も得ることが出来ずにいた。

 ピリリリ――!

 令子が盛大なため息をつくと同時に、味気ない着信音が鳴り響く。仕事用の携帯電話だ。ポケットから取り出して画面を見ると、西条輝彦の名前と番号が表示されている。通話ボタンを押すと、令子は携帯電話を耳にあてがう。

「もしもし令子ちゃん、何か手がかりは見つかったかい」
「それがさっぱり、なしのつぶてよ。西条さんの方はどうだったの?」
「実は、被害者の身辺を調べているうちにある共通点が見つかったんだ」
「詳しく聞かせて」
「手短に言うと、被害者は全員女性絡みのトラブルを抱えていた――つまり、浮気や二股をしていたんだよ。それが妻や恋人に知れて、ずいぶん揉めていたらしい」
「……嫉妬絡み、ってことかしら」
「ああ、昔から女性の嫉妬は物の怪に変じやすいと言うし。話を聞かせてくれた女性達もずいぶんやつれていたよ」
「これだけ探してシッポを掴ませない相手となると、油断できないわ。一旦合流して対策を立てましょ」
「ああ、被害者は例外なく殺されている。用心に越したことはないな」
「じゃあ、後で私の事務所に」
「了解」

 令子は西条と合流する約束を取り付け、早々に現場を後にした。




 その頃、横島は自分のアパートに辿り着いていた。見慣れたボロアパートの階段を登っていくと、自分の部屋の前に誰かが立っている。薄曇りの天気のせいか、顔がよく見えない。目を凝らしながら近づいてみると、セーターにコートを羽織りブーツを履いた女の子――私服姿のおキヌだった。

「ど、どうしたんだよおキヌちゃん。なんでこんな所に」
「具合が悪くなったので休んでいたはずでは?」

 横島とシロが顔を見合わせていると、おキヌはドアから身体を離して二人の前に近づく。

「寝てたら治っちゃいました。ほら、こんなに元気」

 そう言ってドアから離れた途端、おキヌの足元がふらついて倒れそうになる。横島はおキヌの傍に駆け寄り、彼女の肩を支えた。うなだれたおキヌの顔には長い髪が掛かり、表情が見えなくなっていた。

「ごめんなさい横島さん。ちょっと立ち眩みしてしまって」

 そう言って再び顔を上げたおキヌは、いつも通りの穏やかなで微笑んでいる。

「それで、どうしてこんな所にいたんでござるか?」
「ええ、実はシロちゃんに伝言が」

 不思議そうに尋ねるシロに、おキヌは令子からのメッセージを伝える。それは「事件の調査で手伝って欲しい事が出来たから、一旦事務所に戻りなさい」というものだった。

「シロちゃんも横島さんも電話持ってないから、戻ってくるまで待ってようかなって」
「この寒いのに無茶するなぁ、おキヌちゃん」
「では拙者は事務所に戻るでござるが……先生達はどうするので?」
「現場の方は私が引き継ぐから、シロちゃんは早く事務所へ戻ってあげて」
「わ、わかってるでござるよ」

 横島と二人きりの共同作業があっという間に終わってしまったことに不満はあったが、令子の命令には逆らえない。シロは何度も横島に手を振ると、猛スピードで走り去っていった。

「さてと、それじゃ仕事の続きを――」

 横島が振り返っておキヌを見ると、おキヌは黙ったまま身体をくっつけて来る。そして、そっと腕を絡めてこう呟く。

「二人きりに、なれましたね」
「へっ?」

 言葉の意味が分からず、横島は間抜けな声を出す。おキヌは胸元にすがるように身体を預け、熱を帯びた瞳で見上げてくる。突然の状況にどうしていいのか、横島は視線と両手を泳がせるのが精一杯だった。そんな彼を見てクスッと笑うと、おキヌは囁く。

「さあ、行きましょ」

 絹が擦れるような、妖しい声だった。




「只今戻りました、美神どの」

 シロが事務所に辿り着くと、令子と西条がテーブルを挟んで何やら話し合っている最中であった。

「あら、早かったわね。そっちでも何か分かった?」
「え? 拙者は美神どのが呼んでいると言うから戻って来たのでござるが」
「言ってないわよ。誰がそんなことを?」
「つい先程おキヌどのが来て、そう伝えてくれたでござる」
「憶えがないわ。それにおキヌちゃんは外出なんてしてないはずよ」
「人狼の嗅覚に賭けて、あれは間違いなくおキヌどのだったでござるよ」
「……確かめましょ!」

 真剣な表情で令子は立ち上がり、おキヌの部屋へと向かう。シロとタマモ、西条も後に続いた。

「おキヌちゃん、おキヌちゃん! 聞こえてる?」

 令子は何度かドアをノックしたが、返事はない。内側から鍵も掛かっているようだ。

「変ね、返事くらいしても良いはずなのに。人工幽霊!」
「はい、美神オーナー」

 令子の呼びかけに『事務所全体』から人工幽霊の返事が返ってくる。

「部屋の様子はどうなってるのか教えて」
「皆さんが外出した後、おキヌさんも事務所を出て行った記録がありますが」
「なんですって!」

 おキヌが嘘をついて仕事を休み、無断で外出したなどにわかには信じられないことである。だが、シロの言うことに間違いがないことは、これで裏が取れた。

「――ところで、プライバシーの保護は良いのですか?」

 人工幽霊は事務所を管理している霊魂である。そのため、結界を張ったり映像を記録することも出来る。だからといって、年頃の娘の個室を監視するのはさすがに趣味が悪いと言うことで、令子がおキヌの部屋と屋根裏部屋を始め、いくつかの部屋は監視しないように言いつけてあった。

「緊急事態なのよ。許可するから早く!」

 明らかに焦りの色が見える令子の言葉に、人工幽霊は従う。部屋の中の様子を確認してみるが、物が動いたりしたような異常は特にない。ベッドにはおキヌが目を閉じて横たわっている。表情は青白く額には珠の汗が浮かび、うなされているようにも見えるが、おキヌ本人に間違い無い。

「馬鹿な……私は確かにおキヌさんが外出するのを確認しました」
「詳しく調べてみて!」
「霊波のパターンは本人と一致しています。呼吸の乱れ、脈拍数の上昇を確認……これは」
「どうしたの?」
「彼女の霊力が大幅に減少しています。体調不良の原因はこれでしょうか」

 人工幽霊の言葉に少し考え込んだ令子は、部屋の鍵を開けるように指示を出す。ところが、人工幽霊が解錠しようとすると、強力な霊波がそれを邪魔した。

「解錠できません美神オーナー。霊波による妨害を受けました」
「妨害ですって?」
「おキヌさんの霊波で部屋に結界が張られています。それも、かなり強力な。肉体には相当の負担がかかっているはずです」

 その言葉に、令子の中で謎がひとつの線に繋がっていく。

「まずい、横島君が危ないわ。きっとシロが逢ったおキヌちゃんは、妖怪が霊波まで真似たニセモノだったのよ。最初に現場を訪れたときに取り憑かれたんだわ!」
「霊波レベルまで擬態したなら、いくら妖気を追っても無駄なはずだ。ここの結界に反応しないのも同じ理由か!」

 西条も盲点を突かれていたことに気付き、握った拳を壁に叩きつけた。

「ねえ……ここに結界を張ってる理由はなんなの?」

 話を聞いていたタマモが、指を顎に当てて考え込む。
 妖怪はおキヌの霊力を吸い取って本人になりすまし、事務所を出て行った。ならば、もうおキヌ本人に用は無いと考えてもいい。ところが、意識がないはずのおキヌが結界を張り、周囲からの接触を拒んでいる。

「つまり、ここに見られたり触られたくない物があるって事でしょ。それを今から確かめるのよ」
「それもそうね」

 素っ気なく答えるタマモの隣で、シロがややこしい事態に頭を掻きながら尋ねる。

「それで、せ、拙者達はどうすればいいでござるか?」
「シロとタマモは急いで横島君とおキヌちゃんのニセモノを探して。私と西条さんはこの部屋に突入してみるから!」
「わかったわ。行きましょシロ」
「先生……!」

 シロとタマモは疾風のように事務所を飛び出し、横島の匂いを辿って駆け出していく。令子と西条は、それぞれ神通棍と聖剣を手に扉と対峙する。




 横島とおキヌは腕を組み、どこへ向かうでもなく歩いていた。おキヌの様子がおかしいことは彼にも分かっている。しかし、左腕に感じるおキヌの体温とささやかな膨らみの感触は捨てがたい。

「一度こうして、誰にも遠慮することなく歩いてみたかったんです」

 さらに彼女の言葉が甘い旋律のように頭の中で鳴り響き、思考を鈍らせる。そうしているうちに、横島は自分がどこを歩いているのか分からなくなってきた。

(気のせいか、さっきから同じ場所をグルグル回ってるよーな)

 違和感を覚えながらも、言葉が出てこない。おキヌが急に大胆なことをし始めた事も妙だと感じているのに、深く考えようとしても頭が働かない。差し掛かった曲がり角も、すでに何度も通ったような気がする。

「あ、あのさ、おキヌちゃん」
「なんですか?」
「どこへ向かってるんだろ、俺達」
「どこだっていいじゃないですか。私といても楽しくありませんか?」
「いや、そういうわけじゃ」

 腕を組んで可愛い女の子と外を歩く。数え切れないくらい羨んできた状況を自分が体験しているというのに、気持ちが晴れない。

(っていうか俺、仕事中だったよな……こんなのバレたら美神さんに怒られちまうかな)

 ふと、横島は令子のことを思い出す。まだ捜査は続いてるのか、新しい手がかりは見つかったのか。令子に黙ってこんな事をしていると思うと、さすがに後ろめたさがこみ上げてきた。

「――さん、横島さん」
「へっ、あ、何?」

 うわの空で言葉を聞き流している横島を、おキヌが睨む。暗い感情に病み、普段の彼女からは想像も出来ない歪んだ表情をしていた。

「誰か、他の女の人のこと考えてたんですね」
「い、いや、そんなことは」
「隠しても分かるんですよ……!」
「痛ッ!」

 横島の左腕に絡むおキヌの腕が強く締め付け、血が滲みそうなくらいに爪を立てる。

「どうして他の人ばかり見るんですか。いつも見てるのに、私の気持ち知っているくせに。どうして――!」

 明らかに尋常ではないおキヌの言葉に、冷や汗が頬を伝う。目を見開き、呼吸を荒げて詰め寄るその様は、嫉妬に狂う『女』そのものに思えた。

「お、落ち着けおキヌちゃん。なんか今日はおかしくないか?」
「おかしくなんかありません、いつだって、ずっと思っていたのを押さえてたのに!」

 さすがの横島も、ここまで真剣な修羅場の雰囲気を味わったことはない。本気でまずい空気が流れていることが、肌を刺すようにピリピリと感じられる。おキヌもずいぶん興奮しており、放っておいたら卒倒してしまいそうだ。
 弱り果てて視線を周囲に向けてみると、横島は自分の立っている場所に気が付く。

(あれ、アパートの前じゃないか。いつの間にか戻ってきたのか?)

 とりあえず、往来のど真ん中で痴話ゲンカはシャレにならないと思い、横島はおキヌの手を引いて部屋に戻ることにした。
 暖房の効いていない部屋の中は寒く、カーテンを閉めたままにしてあったので薄暗い。いくらかゴミが散らかったままなので、すえた匂いが充満している。横島は器用にゴミを跨いで窓際に向かうと、カーテンを開けて窓を開けた。冬の冷たい風が流れ込み、淀んだ空気を洗い流してくれる。大きなビニール袋に散らかったゴミをまとめると、横島はおキヌが座れる場所を作って手招きした。

「相変わらず汚い部屋でごめん。とりあえず、炬燵にでも入って休みなよ」

 おキヌはコクリと頷くと、そっと後ろに手を伸ばす。

 ――かちゃ。

 横島に気付かれないよう玄関の鍵を掛けると、おキヌはうつむいたまま部屋に上がった。長い髪が前に垂れて、その顔を覆い隠している。そのまま無言で横島の元へ近寄ると、その背中を抱きしめた。

「お、おキヌちゃん?」

 おキヌは答えない。横島の背に顔をうずめ、吹き込む風に髪が舞う。と、その瞬間、音もなく部屋の窓が閉まった。

「……え?」

 触れてもいないのに、ひとりでに閉じる窓。そしてカーテンもまた、音もなく閉まっていく。部屋は再び薄暗くなり、完全に外界と遮断されていた。

「横島さん――」

 空気の冷たさを忘れるような、ぞくりとする声。背中越しに伝わる声が、横島の脊髄を貫く。

「二人きりですね……」
「あ、ああ、さっきからずっとそうじゃないか」
「ここは横島さんのお部屋です」
「そ、そうだね、ははは」
「ねえ、私のお願い、聞いてくれますか……?」
「えっと、どんなお願いかな」

 上手く回らない舌で返事をする横島。
 するり、と衣服のはだける音。
 おキヌは息がかかるくらい横島の耳元に唇を寄せ、吐息のように囁く。

「私のこと、もっと好きになって欲しいの……」

 横島の身体に回された両腕が、そっと首筋にあてがわれ――




 シロとタマモは、横島のアパートを目指して走る。

「先生、無事でいてくだされ――!」
「ねえ、シロ」
「何でござるかっ」
「さっきの話だと、相手は見分けが付かない程そっくりに化けてるのよね。あんた、ニセモノとは言えおキヌちゃんと戦える?」
「ニセモノはニセモノ、どんな姿をしていようと容赦はしないでござる!」
「……そう、ならいいけど」

 屋根の上を飛び越えながら、シロとタマモは言葉を交わす。風のような速さで駆け抜ける彼女達の視線の先には、小さく横島のアパートが見え始めていた。




「うぐっ!?」

 まるで熊か大蛇にでも締め上げられているような圧迫感に、横島のうめき声が漏れる。精一杯の力で首を動かしてみると、自分の背中には人の形をした帯状の物が蠢いていた。その端がゆっくりと持ち上がると、闇に光る眼を輝かせて声を発した。

「私のことだけ見て。私以外に優しくしないで。ずっと傍にいて――」

 おキヌの声であると同時に、複数の情念が入り混じったような低く陰気な声が重なり合う。

「くそ、何なんだお前は……おキヌちゃんをどうし……ぐああッ!?」

 万力のような力に全身の骨がきしむ。帯はシュルシュルと横島の身体に巻き付き始め、大蛇が獲物を絞め殺すような格好になっていく。

「私はキヌですよ……素直になって、自分の気持ちを解放しているだけ。だから、今まで言えなかったことも出来なかったことも、何でも出来るんですよ……うふふ」
「だ、黙れバケモノ! てめー、よくもおキヌちゃんの姿で――!」
「……やっぱり分かってない。横島さんは分かってない。私があなたを想ってどんなに苦しみ、哀しんだのかを!」
「それ以上おキヌちゃんの声で喋るんじゃねぇ! くそ、こんな……!」

 怒りに任せてみても、帯は解ける気配がない。それどころかじわじわと締め付ける力が強くなってきている。

「私は氷室キヌの影……私の言葉は全て彼女の言葉。こんなになるまで私は想い続けていたのに」
(ちくしょう、文珠が使えない……どうすりゃいいんだ)

 全身を締め付けられて呼吸が乱れている状況では、生成すること自体が不可能だった。さらに、両手足もがっちりと巻き付かれて指一本動かせない。

「好き……大好きよ」
「くそ、離せッ!」
「誰にも渡したくない……私だけの物にしたいの。だから」

 横島の目の前に帯が集まり、蝮の塊の如くもぞもぞと絡み合う。次第にそれは人の顔へと形を変え、




 ――死んでください。




 宙に浮かんだおキヌの顔が歪み、にぃ、と嗤った。

「う、うわあああああッ!?」

 横島の絶叫と、窓ガラスが割れるのは同時だった。

「先生、無事でござるか!」
「な、何なのこれ!?」

 間一髪で駆け付けたシロとタマモを待ち構えていたのは、部屋を埋め尽くす程に広がって重なる帯だった。足元で蠢く大量の帯に囲まれ、二人はまるで毒蛇の群れに足を突っ込んでしまったような気分だった。

「この、先生を離せ!」

 シロが霊波刀で帯を斬ろうとするが、帯が彼女の足に絡み付いて邪魔をする。バランスを崩して転倒したところに、帯が口と鼻を塞ぐように貼り付いてきた。タマモも狐火で応戦しようとしたが、巻き付いてくる帯の方が一瞬早かった。

「んぐぐーッ!?」
「むーっ!」

 二人はミイラのように全身を巻かれ、宙にぶら下げられてしまう。ミイラ取りがミイラ取りになるという言葉があるが、まさにその通りな上に笑えない状況だ。

「邪魔しないで……せっかく私と横島さんが二人きりでいられたのに」

 粘っこく、憎悪に満ちた声が薄暗い部屋に響く。

「シロ、タマモ! しっかりしろ!」

 横島の声に反応するように、シロが身体を捻ってもがく。だが、幾重にも巻き付いている帯は鋼鉄のように頑丈で、やがてシロはぐったりとして動かなくなってしまった。

「他の女の名前を言うなんて!」

 帯がざわめき、ますます締め上げてくる。あと少しで間違いなく骨が砕けるだろうと横島は感じた。

「怖がらなくてもいいんですよ。死んだ後で、うんと愛してあげるから。うふ、うふふふ」
「ちくしょう、なんで取り憑かれたことに気づけなかった……おキヌちゃん――!」

 横島が名を呼ぶのと、シロとタマモが苦痛の悲鳴を上げたのは同時だった。
 刹那、毒蛇の群れが雪崩を打って覆い被さったように見えたが、それは瞬時に雲散霧消した。




「人帯を敷きて眠れば、蛇を夢む。されば妬める女の三重の帯は、七重にまはる毒蛇ともなりぬべし――か」

 蹴破られたドアの奥で、令子がおキヌを抱きかかえて呟く。

「今昔百鬼拾遺、中の巻霧。蛇帯だな……」
「嫉妬に狂った女の情念が、帯を毒蛇に変えて男を絞め殺す……まさかここまで厄介な妖怪だったなんてね」

 おキヌが寝ていたベッドには古びた錦の帯が敷かれており、その中心を神通棍が貫いている。これが男性を襲い、絞め殺していた物の怪の本体であったのだ。

「女性の嫉妬心につけ込んで取り憑き、その人間をコピーした影を相手に送りつけて殺す……ずいぶんと手の込んだ妖怪だな、まったく。結界を破るのに手間取ってしまったが、横島君は無事だろうか」
「平気よ。アイツ悪運だけは異常に強いから」

 そして令子の言葉通り、横島は絞め殺されるすんでの所で命拾いをしていたのである。




 その後おキヌは三日三晩眠り続けたが、無事に意識を取り戻した。

「ほとんど何も覚えてません。ただ、すごく怖い夢を見ていた気がするんです。私が横島さんを――」
「もういいんだよ。怖い夢なんか思い出さなくていいんだ、おキヌちゃん」

 横島はベッドで横たわるおキヌに優しく答えた。おキヌは何も覚えていないと言っていたが、きっとそれは幸運だろうと彼は思う。おキヌの様子を見守っていた令子もシロもタマモも、同じ気持ちであった。
 それからさらに数日が過ぎ、おキヌの体調は元通りに回復する。
 令子に頼まれて厄珍堂へ買い出しに行った帰り道、おキヌは横島と二人並んで歩いていた。

「う〜、今日も寒いなあ」

 吹き抜ける風は冷たく、横島はぶるっと身体を震わせる。

「あっ、あの……腕組んでもいいですか?」
「えっ?」
「ほ、ほら、くっついてた方が温かいですし、それに、その……ごにょごにょ」

 すっかり賑やかになってしまった美神除霊事務所の生活では、なかなか横島と二人きりになる機会がない。お使いの帰り道とはいえ、この時間はおキヌにとって貴重なチャンスなのである。

「あ、ああ、もちろん」

 空いた左腕を差し出すと、おキヌは少し頬を染めながら腕を絡めてくる。二人寄り添っていると、なるほど心も体も火照ってくる。
 顔を見合わせて照れ笑いを浮かべると、立ち止まっていた二人は再び歩き出した。

「――そうそう、んでアレが……お!?」

 おキヌと話しながら歩いていた横島は、向かいを歩く女性を見て釘付けになる。
 オフィス制服に身を包んだOLで、大人びた雰囲気もさることながら、制服の上からでもはっきり分かる豊満なボディラインが横島の煩悩を刺激して止まない。

「うーむ、これはまた掘り出し物だぞ。あのちちといい、腰のくびれといい、シリにフトモモ。美神さんと良い勝負の逸材がまだ存在するとは……奥が深い」

 セクハラまがいの失礼な分析に没頭する横島の横で、おキヌがジトッとした眼で睨みつけた。

「よ・こ・し・ま・さ・ん?」
「あああ、堪忍や、男のサガなんや、ちょっと魔が差しただけなんやっ!」

 耳をぎゅうっとつねられて、横島は土下座して平謝り。

「まったくもう……そんな事ばっかりしてると、怒っちゃいますよ」

 言葉とは裏腹に、おキヌの表情は可愛らしいものである。だが――

 がさ……

 彼女の影の中で、蛇に似た何かが蠢くのを横島は見た。