もしも笑顔が見れたなら


 ――お前の望みを叶えよう――

 唐突に、声がした。
 ぼんやりとしたまま眼を開けると、枕元に誰かが立っている。
 確かにそこにいる。なのに、どうしても顔がよく見えない。
 ただ、不吉な感じはしなかった。柔らかな、温かな波動を発しながら自分を見下ろしている。
 身動きもせず、俺はまどろみの中で言葉を紡ぐ。

「……あんた……誰……?」

 人影は何も答えない。間を置いて、同じ言葉を繰り返す。

 ――お前の望みを叶えよう――

 望み?
 そう言われてみたものの、なぜか思いつかない。
 金とか食い物とか裸のねーちゃんとか、思いつく限りイメージしているが口に出す気になれない。
 唸りながら色々思考を巡らせていると、その声は言う。

 ――目を向けなさい。心に沈めた自らの想いを――

 そうだ。
 ずいぶん時間が経った今も、忘れるはずのない想いがあった。
 哀しくて。儚くて。愚かで何もしてやれなくて。
 もう振り返らないと決めたあの出来事。
 それでも思い出す、あの出来事。
 心のどこかで思っていた。

「――あの時に戻りたい……会いたい人がいるんス……」

 もう一度。もう一度だけでいい。
 もしも願いが叶うなら。
  
 ――起きてしまったことは変えられない。だが五分だけ、彼の者との再会を赦そう。
 


 
 真っ赤に燃える太陽が、水平線へと沈んでいく。
 朱と藍が混じり合う空の色。
 昼と夜の隙間――そして、鉄塔に寄りかかる彼女が目の前にいた。

「本物……なんだよな」

 ひどく間の抜けた声だったように思う。ただ、すぐには信じられなくて。

「ヨコシマ! どうして――」

 言いかけて、彼女は言葉を止める。
 やや目を細めながら、だけど嬉しそうに

「……そう。会いに来てくれたのね」
「ああ」

 彼女の傍に腰を下ろし、俺はその身体を抱きしめた。
 華奢で、とても弱々しくて、今にもこの手から抜け出てしまいそうで。
 ただ強く、強く、放さぬように。
 沈みゆく夕日を二人で眺めながら、

「あの時もこうして夕日を見たね」
「そうだな」
「昼と夜の隙間――少ししか見られないから、よけい綺麗に思えるのよね」
「うん、綺麗だ。本当に……」

 少しずつ。少しずつ。
 その時は近づいている。俺はただ、彼女の言葉に頷くだけ。
 言葉なんて、何ひとつ出てきやしない。

「ねえ」
「ん」
「どうして、会いに来てくれたの?」
「……わがままだよ。俺の」

 そう、わがままだ。
 彼女のためじゃない。ただ、自分が望んだことのために。
 どこまで自分勝手な奴だ、そう胸の奥で独りごちる。
 彼女の身体が軽い。手に伝わる感覚もどんどん薄くなっていく。
 俺は彼女の耳元で、最後の望みを告げた。

「サイテーだな、俺」
「ううん、とっても嬉しいわ。あれで最後だと思ってたから。だからそんな顔しないで」
「ごめん。でも、でも俺は! 俺はずっと――!」
「……ねえ。せっかくだし、私もお願いしていい?」
「えっ? あ、ああ。何でも聞くよ」
「あのね――」

 最後にもう一度だけ名前を呼んで欲しいと――彼女はそう願った。
 だから俺はよく聞こえるように顔をくっつけて。
 強く抱きしめながら彼女の名を呼んだ。
 小さな肩が震えて、身体がほうっと熱くなって。
 腕の中で、彼女も俺の望みに答えてくれた。

「ふふ。よかった。ちゃんと憶えててくれたのね」
「当たり前だろ。忘れるもんか」
「嬉しいな。ねえヨコシマ。私ね……あなたに会えて、本当によかった……」




 もしも願いが叶うなら

 何もしてやれなかった俺に、見送らせて欲しい

 もしも願いが叶うなら

 もう一度見せて欲しいものがあるんだ――




 溢れ出した想いの破片が頬を伝う。
 そのぬくもりに俺は目が覚める。
 いつもと変わらぬ、朝の薄暗い部屋。
 抑えきれなくて、もうどうしようもなくて。
 目元を拭って見た部屋の隅で、緑色の小さな光が舞い、そして消えた。

 あの人物も、彼女のことも、本当のことだったのか。
 ただの願望が見せた幻か。
 どちらなのか俺には分からないが、もうどうでもよかった。

 思い浮かべるルシオラは、幸せそうに笑っているのだから――