蜂と英雄

モドル | モクジ

  最終話  

 傷ついたジークとベスパの前に立ち、両手で作り上げた魔力の壁で炎の獣を押し止める者がいる。
 年端もいかぬ少女の姿をした、ルシエンテスのしもべアンジェラ。
 なぜこんな事をしたのか、本人ですら良くわからない。ただ心に湧き起こった想いに突き動かされ、気付いたらこうしていた。
 残された最後の力を振り絞り、彼女は炎の獣を弾き返す。
 まさかの出来事にルシエンテスは一瞬反応が遅れ、彼は炎獣の身体たる業火に包み込まれてしまう。

「ぬぅ……何事だ!」

 全身から霊力を放出して、炎をかき消したはいいが、その衣服や肉体は焼け焦げて深刻な被害を受けていた。見ればアンジェラが主たる自分にその手を向けているではないか。
 少女の姿を瞳に捉えたまま、ルシエンテスは地面に降り立つ。

「どうしたというのだ。おかげでこの肉体が使い物にならなくなってしまったぞ。答えよ、アンジェラ!」

 老人はぐらりと傾き、糸が切れたように倒れた。彼の身体から赤い砂煙が噴き出したかと思うと、赤黒いミイラがその場に立っていた。
 地上からわずかに浮かんでいるミイラは、禍々しい殺気を膨れ上がらせていく。

「答えんかアンジェラ」
「わ……わたし、私……は……」

 震えるその手を握りしめ、アンジェラは怯えていた。
 刷り込まれた存在理由を、自ら否定する行い――彼女の心は、与えられた知識と芽生えた感情の間で激しく揺れ動く。
 ――自分は誰で、何故ここにいるのか。
 アンジェラは心を掻き乱し、身動きが取れなくなってしまっていた。

「そうか答えられんか」

 音もなく移動し、ルシエンテスはアンジェラの目の前に立つ。
 暗い穴だけが開いた、光を宿さぬ眼窩がその小さな体を見下ろしていた。

(ダメだ……そこにいちゃ!)

 まだ自由の戻らぬ身体を横たえたまま、ベスパは見ていた。
 用をなさなくなった使い魔の末路を、誰よりも知っている彼女だからこそ、目の前に迫る現実が何を意味するのか、考えるまでもなく理解していた。

「わ、私、あの人と一緒に……いきたい……」

 作られた道具としてではなく――心を持つただひとりとしてその言葉は紡がれる。自らの全てを捨てるに等しい選択をすることは、どれほど怖いものであるだろうか。胸に内に眠っていたちっぽけな勇気を振り絞って、答えは示された。

「ククク、懐かしい台詞ではないか。昔、お前と同じ名の女が、同じ言葉を口にしたものよ。まあよい、お前はワシのために働き、役に立った。おかげでここに至るまでの手間がずいぶんと省けたのは事実じゃからな。その働きに免じ、反逆には目をつぶってやろう。ご苦労だったなアンジェラ……お前の役目は終わった」
「あっ……」

 骨と皮だけの腕が、静かにアンジェラの胸に突き刺さる。
 血は流れず、ゆっくりと引き抜かれたその手に、淡く輝く青白い球が握られていた。そこから発せられる波動は、底の見えぬ暗闇に身を置いていた幼い命の灯火。
 ルシエンテスはそれを頭上に掲げ、指先に力を込めた。

「やめてーーーーーーッ!」

 一陣の風が吹き抜けた。
 青白い光の綿帽子が、ぱあっと舞い上がる。
 それは残酷に、ゆっくりとベスパの前に降り積もった。
 目を見開いたまま呆然としていると、かすかに温かいひとひらの光が近付いてくる。両手でそっとそれを受け止めた刹那、彼女の中になにかが流れ込んできた。

『これ、あんたが作ったの?』
『……はやく食べないと料理冷めちゃうよ』

『……それ、私が選んだの』
『え、あ、そうなんだ。良いセンスしてるわよ、アンジェラ』

『大丈夫だった? ほら、掴まって。妹がね、いるんだ――って、ごめん、関係なかったね』
『手、あったかいね……』

 それは魂の残り火。
 道具として作られた存在が、唯一自分の心に明かり灯したわずかな記憶。
 たった、それだけ。
 それだけが、アンジェラという少女にあった全てだった。
 砕け散った心の破片が頬を伝うのを、ベスパは止めることができなかった。

「あっ……ああっ……」

 体の上に降り積もる魂の破片をかき集め抱きしめ、ベスパは泣いた。
 そして今頃になってようやく、その身体に少しずつ自由が戻ってくる。自分の不甲斐なさを心底恨めしく思いつつ、彼女はアンジェラの残骸を抱きしめたまま、這うようにしてジークの傍へと近付いていく。

「ジーク起きなよ……まだ、あんたにはやることがあるでょ」

 全身に岩石の楔を打ち込まれたジークは、首をうなだれたまま目を閉じ、唇から血を滴らせてピクリとも動かない。
 ――ここで終わってしまうのか。今までの全てが無駄に?
 押し寄せる感情に耐えきれず、ベスパはジークの胸元に額を押しつけ、両手で叩く。

「嫌だ……こんな、こんな終わりかた――お願い、目を開けてよジーク!」

 こぼれ落ちた涙が、首に掛けられていたマリンブルーの宝石に触れた。ワルキューレより受け取った、穢れた水を浄化するというアクアマリン。それがわずかに輝いたことを、ベスパもルシエンテスも気付いてはいなかった。

「他人のことで感傷的になるなど、ナンセンスじゃな。しかし、よくよく邪魔が入る。貴様らの始末は後回しにして、魔神復活を優先させるとしよう」

 ルシエンテスは空洞となったアンジェラの肉体を投げ捨てると、火口の上空へと飛んでいく。目の前で噴火が繰り返される場所までやってくると、黄金の林檎を火口に放り込む。黄金の林檎はあっという間に小さくなり、煮えたぎるマグマに吸い込まれ消えていく。

「さあ、今こそ目覚めの時だ! 大地母神ガイアの産み落としたる、暴風雨の化身にして全ての風の父、破壊の魔神テュポンよ!」

 両手を広げ、天を仰ぎルシエンテスは叫ぶ。
 求め続けてやまない、究極の存在の姿を待ちわびながら。
 ところが、

「……どうした、長い間封じられてその力が鈍ったのか? なぜ何も起きん? 林檎の製法も完璧だったはずじゃ」

 火山は噴火を続け、暗雲と竜巻は変わらず存在していたが、何も変化が起こらない。どこに落ち度があったのかと眉間にシワを寄せていると、頭上から光の筋が連続して降り注ぎ、ルシエンテスの胴体を貫いた。砂でできている身体はダメージを受けることなく、光の筋はルシエンテスを通り過ぎて、岩肌に突き刺さる。
 何者かと顔を上げると、羽根を手にしたハーピーが飛来していた。

「くたばれッ、クソジジィ!」
「くっ……どいつもこいつも、こざかしいわゴミ共がッ!」

 魔神が復活しないうえ、あまりに何度も邪魔をされたルシエンテスは、怒りに燃えて激昂した。宙を舞うハーピーに、逃げ場が無いほど霊波を乱射したその時。
 ――ザクッ!
 背中から、なにかに貫かれたのを感じた。
 その身体は砂であるから、当然痛みなどは感じないが、刹那――

(――!?)

 凄まじい違和感が全身を駆け巡る。
 身に起きた異常に、ルシエンテスは生を受けてより初めての戦慄を憶えた。首を動かして後ろを見れば、魔剣を砂の身体に突き立てているジークの姿。彼の体には無数の破片が刺さったままだったが、その眼光は死んでいない。

「この瞬間を待っていた……お前が我を忘れて怒り、冷静さを失った一瞬を……」
「小僧……これはどういうことじゃ?」
「お前が手にしていた林檎は偽物……限りなく本物に近い、文珠を使って波動までコピーしたイミテーションだったのさ」
「ぬうっ!?」
「本物は――あっちだ」

 斜面に座り込んでいるベスパの手には、霊波動を遮断する布に包まれた本物が握られていた。横島からもらった文珠でのコピーは良いアイデアだったが、文珠の効果時間はそれほど長くない。最後まで敵を信じ込ませるために、自分の傍に本物を置いておく必要があった。
 本物の波動でルシエンテスを呼び寄せ、気付かれぬようにすり替える。戦いの中でこれをやるのは非常に困難であったが、ジークの狙いは見事に成功したのである。

「それにしても、幸運だった――姉上からもらったこの宝石が、力尽きかけた俺に最後の力を与えてくれた……もう、逃がさん!」
「そ、それは……ワシが無くしたアンジェラの石ではないか。小僧、それをどこで」
「そうだったのか……どうやらツキは、初めから俺に味方していたらしいな」

 ジークは全霊を込め、魔剣をさらに深く突き立てる。
 柄越しに、ルシエンテスの膨大な魔力が吸い取られているのが感じられた。

「ぐぐぐ……か、身体が固まる! 身動きが取れんッ!」

 ルシエンテスを貫いたグラムは、その邪な魔力を際限なく吸い取り続ける。魔力によって保っていた砂の身体は、セメントのように固まってゆく。
 もはや、逃れることは不可能だった。

「おのれ、何故だ。なぜこんな事になった。ワシがゴミのような貴様らに――」
「お前は、くだらないと切り捨てた人間の……心に負けたんだ」
「くっ……バカなッ!」
「このまま火口に沈んでもらう。そのうえで封印が修復されれば、二度とこの世界に戻ってこれないだろう。憧れた魔神と共に、タルタロスの闇で永劫の時を過ごせ」
「ぐおおおおおッ!?」

 ジークは残る全ての力を振り絞って、火口へと飛び込んだ。
 真っ赤に煮えたぎるマグマのプールにルシエンテス共々魔剣を突き刺すと、その場を中心にして溶岩が固まり、足場のように広がっっていく。そうしてジークのいる場所は、マグマ溜まりの中で小さな島のように浮き上がっていた。
 岩石の中に封じられ、もう二度とルシエンテスが舞い戻ることはないだろう。決着が付いたことを実感した途端、ジークの全身から力が抜けていく。だが、彼の両手は魔剣から離れない。
 魔剣グラムが、ついに持ち主を破滅へと導き始めたのだ。

「ここまでか……」

 魔剣を手にしたもの全てに訪れる運命が、目に見えぬ鎖で身体を縛り付けている。薄れゆく意識の中、ジークは横島や雪之丞、小竜姫やパピリオ――そしてワルキューレの顔を思い出す。そして最後に思い浮かんだのは、ずいぶんと手を焼かされたスズメバチの魔族のこと。
 純粋な心を、美貌としなやかな身体に包む女魔族。彼女のアンバランスな魅力に、自分は惹かれていた。
 ――最後に見たのが泣き顔だった事は少し残念だが、これでいい。
 そう思った時だった。
 どこからかジークをを呼ぶ声が聞こえる。
 引き戻された意識の中に、火口へ飛び込んでくるベスパの姿が映った。

「ジークっ!」
「バカ……何をしにきたんだ」
「助けるために決まってるでしょ」
「お前だって怪我をしているじゃないか……」
「こんなもんかすり傷だよ。それより早く!」

 差し出された手に、ジークは顔を上げるのが精一杯だった。

「この魔剣は私の望みを叶えた……だから見返りに、魔剣に命をくれてやらなければならない。自分の意志では、剣から手を放すことが出来ないんだ」

 ジークが魔剣に触らせまいとしていたのはこの事だったのかと、ベスパはやっと理解した。

「だったら引っぺがしてでも連れてく! こんなもの――!」

 ベスパはジークの両手を取り、強引に魔剣から引き離そうとした。
 だがどんなに力を込めても、ジークの手は柄から離れない。そうしているうちに火口が激しく揺れ始め、マグマが波を打って荒れ狂った。

「もういい、早く逃げろ。じきに逆天号の主砲がここに撃ち込まれる。そうなったら、いくらお前でも塵ひとつ残らないぞ」
「あんた一人ほっぽって逃げられるわけないだろ!」
「すまん、ベスパ」
「謝らないでよ、バカ……」

 ベスパはジークの腕を引っ張るのをやめ、彼の傍らに膝を付いて寄り添った。

「一人だけ残されるのは……もう嫌なんだよ」

 その時だった。
 ジークのアクアマリンから光が溢れ、まばゆい光の中に女性の姿が浮かび上がった。金色の髪をした、美しい女だった。

「だ、誰?」
「ま、まさか――彼女は」

 女は一粒の涙をこぼした後、やさしく微笑んだ。
 するとあたりが不思議な涼やかさに包まれ、ジークの指が魔剣から離れていく。

「ありがとう、アンジェラ」

 女はアクアマリンに目をやると、コクリと頷いた。ジークは首飾りを外し、剣が突き刺さっている場所――ルシエンテスが眠る場所にそっと置いてやる。女は礼を言うように目を伏せ、ゆっくりと消えていった。

「ジーク、アンジェラって一体……」
「話は後だ。早く脱出を……くっ」

 ジークに肩を貸し、ベスパは火口から飛び立とうとしたが、激しい振動に火口内部の壁が崩れ始め、巨大な破片が雨のように降り注ぐ。落下する岩を避けながら飛び続けるベスパ達の頭上に、ぐらりと特大の影が覆い被さる。

「ちくしょう、あと少しなのに!」

 悔しさに唇を噛むベスパとジークの頭上に、剥がれた岩壁が圧倒的な質量を持って倒れ込んだ。




「ぶはーーッ!!」

 エトナ火山ふもとの平原にて。
 美神令子率いる攻撃班のメンバーは、カタコーム(地下墓地群)から脱出した途端に、魔族の集団と遭遇してしまった。
 ここぞとばかりに冥子のプッツンで応戦したものの、モタモタしていては核弾頭の衝撃波で吹き飛ばされてしまう。そこで、横島が最後の文珠を使ってあるアイデアを決行したのである。
 それは【潜】の文字を浮かび上がらせ、地面に潜るという突飛なものだった。直後、衝撃波は地上にいた魔族達を残らず吹き飛ばしてしまった。
 ほとぼりが冷めた頃、令子が最初に顔を出した。続いて横島やその他の仲間達も、地面から這い出してくる。

「とっさのアイデアにしては、なかなか良かったわね横島クン。地面の下は息苦しかったけど……」
「身体が土臭いわ」

 深呼吸をする令子の横で、タマモが自分の服の匂いを嗅いでぼやく。

「いやー、まさかあそこで見たモグラの姿が役に立つとは。秘技、土竜の術とでも名付けましょうか。わっはっは」
「まだ安心出来ませんよ皆さん。急いでこの場所から離れましょう」

 ピートの言葉に全員が頷き、令子たちはエトナ火山からできるだけ離れるように走った。そのわずか数分後、火山の火口に逆天号の主砲が撃ち込まれたのを彼女らは見た。
 断末魔砲はゼウスの雷(いかずち)【テイ】を再現し、核兵器をも越える強烈なエネルギーの奔流が火山と大地を貫き、火口の上半分以上が跡形もなく吹き飛んでしまった。
 断末魔砲が撃ち込まれてからしばらくして――空に立ちこめていた暗雲が晴れ、竜巻が姿を消し、火山の噴火は沈静化した。
 人間、神族、そして魔族が協力し、台風の化身テュポンの復活は潰えたのである。
 ヨーロッパ――特にフランスとイタリアを震撼させた、魔族による核弾頭強奪事件とローマ襲撃事件はこうして幕を閉じた。
 日本から呼び寄せられたGS達も故郷に戻り、それぞれの暮らしに戻っていった。
 そして、何事もなかったかのように月日は流れた。




 シチリア島タオルミーナ。
 坂の多いこの街の外れには、古いが立派な屋敷がある。
 芝生の敷き詰められた広い庭に、オーバーオールの少女と真っ白な髪とヒゲの老人が遊んでいた。それを、やや猫背気味な眼鏡をかけた中年の男が見守っている。
 少女は屈託のない笑顔で笑いながら男の傍に駆け寄った。

「ねー、とーちゃんも一緒に遊ぼうよ。そのほーがじーちゃんも喜ぶよ?」
「あ、ああ……そうだな。それじゃあお義父さん、お手柔らかにお願いします」
「シャキっとせんか馬鹿者。そんな事で新しい商売が成功するかッ! この子のためにも、ワシに根性を見せてみよ。くらえ伝家の宝刀、コブラツイストぉ!」
「あだだだだ!? お、お義父さん――ギブ、ギブ!」

 ルシエンテスとアンジェラに憑依されていた老人と少女は、神族の手厚い治療を受けた後、本来の意識を取り戻した。
 もちろん、憑依された後のことは何ひとつ憶えてはいない。
 二人は元いた場所に帰され、普通の生活に戻っていった。
 その姿を、離れた小高い丘から見つめる影がふたつ。海から吹き付ける風に、赤みがかったブロンドの髪をなびかせている女と、腕を組んで一歩後ろに立つ、尖った長い耳の男。

「行くぞベスパ」
「分かってるよジーク。あの二人、元気そうでよかった」

 ジークとベスパは生きていた。
 あの時――火口の岩壁に押し潰される直前、飛来したワルキューレとパピリオが駆け付け二人を救ったのである。
 ワルキューレとパピリオは肉親の無事に、心から喜んでいた。
 斜面に残された人間の身体と黄金の林檎も無事に回収され、全ての憂いは無くなったが、ベスパもジークもひどい怪我をしており、とりわけジークは力を魔剣に吸い取られていたこともあって、あとわずかでも治療が遅れていたら死んでいたほどの重傷だった。
 しかし魔族の頑丈さで順調に傷を癒し、二人とも一週間もすれば動き回れるほどに回復していた。

 回復した途端に、当然の如く二人は魔界正規軍の本部に呼び出された。ベスパは重要参考人として犯罪者と変わらぬ扱いであったが、一切の不満を口にしようとはしなかった。
 正装し会議室に向かうと、そこにいたのは意外なことにアモン将軍だけ。厳しい尋問や罵声を覚悟していたが、少し拍子抜けしてしまう。
 青く短い髪の逞しいアモン将軍は、貫禄のある口調で二人を迎えた。

「まずは二人とも無事で何よりだった。任務の遂行、ご苦労だったなジークフリード中尉」
「恐れ入ります」
「さて、今回のお前達の行動……色々と問題行動だらけだったわけだが……」
「全ての責任は私にあります。罰するなら、私ひとりの――」
「あーあー、勘違いをするな。過程はどうあれ、全てカタを付けたお前達の功績は素晴らしいものだ。かといって公に表彰すると喜ばない連中もいる。そこでこっそりお前達に褒美を与えようと思うのだが、異存はあるか?」
「異存など……ありがとうございます、将軍」
「では、さっそくお前達の望みを聞かせてくれ。ひとつだけ願いを叶えてやろう」

 ジークは言った。
 ベスパの潔白を証明し、反逆者の汚名を取り下げて欲しいと。

「その願い、聞き届けよう」

 とアモンは答えた。
 べスパは願った。
 何ひとつ選べぬまま芽吹き、花開くことなく散ってしまった哀れな魂にもう一度チャンスをと。

「ベスパは姉の件でよく知っているだろうが――集めたアンジェラの霊体の破片を元にしても、新たに生まれてくるのは他人だ。自己満足でしかない行為かもしれんぞ」
「それでも構わない……お願いします」
「分かった。彼女の転生は、責任を持って私が執り行おう」




 それから一年後、ジークとベスパはイタリアに姿を現していた。
 人間の姿に変身し、ローマ市内を歩いて行く。
 ベスパはあの時アンジェラにもらった服を着て。

「――あたしはアンジェラをを救ってやれなかった。あの子は……あたしだった。だから、救ってあげたかったんだ」
「彼女を気にしていたのは、そういうことだったのか」
「今でも思うんだ……あの子の命は何のために――何の意味があったんだろうって」
「生きた意味……か」

 やる瀬のない想いを吐き出すように、ベスパは呟いた。
 しばらく黙っていたジークは足を止め、振り返ったベスパの目を見つめながら言う。

「あの少女はベスパと出会うことで、温もりを知った。手を繋いだとき、彼女は笑っていたのだろう? 心から微笑むことができたなら――それだけで意味があると、私は思う」
「だけど……」
「失われてしまったものは戻らない。残った我々に出来るのは、その美しい心と命から学び、決して忘れないことだ。人として生きようとして死んだ魔女のアンジェラ。哀しい運命を背負った幼子のアンジェラ……
私はこの二人が確かに生きて、死んだことを忘れない」
「忘れない事……か」
「と、そろそろやってくる時間だぞ、ベスパ」

 ジークが腕時計に目をやると、正面から乳母車を押した若い夫婦が近付いてくる。ジークとベスパは、今日この場所でこの夫婦がやってくることを知っていた。そして、その乳母車には生まれて間もない赤ん坊が横たわっている事も。
 ベスパはごく自然に、その夫婦に話しかける。

「可愛い赤ちゃんだね。ちょっと顔を見せてもらってもいい?」
「ええ、どうぞ」

 乳母車を覗き込むと、赤ん坊がしきりにまばたきをしながら見つめ返してくる。ベスパはそっと、その子の頬に人差し指を近付けてみた。
 すると、驚くほど小さな手が、しっかりと指先を握り返し――赤ん坊はきゃっきゃっと笑う。ベスパはその瞳を滲ませながら、赤ん坊の頬を優しく撫でてやった。
 彼女達の後ろでは、ジークと赤ん坊の父親が話し込んでいた。

「ええ、この子は私たちの宝物……かけがえのない宝物ですよ」
「あなた達のような両親の元に生まれて、この子もきっと幸せでしょう」
「幸せにしてみせますとも。必ずね――」

 咲き誇る優しさの中で、その赤ん坊はずっと笑い続けていた。
 やがて会話は終わり、夫婦は軽く会釈をして通り過ぎていく。
 ベスパはその後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。

「これでいいのか、ベスパ」
「あの子、髪も目の色も違ったけど……同じ笑顔だった。今度はきっと、幸せになれるよ」
「ああ、そうだな」
「ありがと、ジーク。わざわざ付き合ってもらっちゃって」
「たまにはこういうのもいいさ」
「あ、あの……さ。ジーク」
「どうしたんだ、急にあらたまって」
「もし……私が消えたら……ジークは、憶えててくれる?」

 抜けるような青空を見つめたまま、ベスパはポツリと呟く。
 その横顔の美しさに少し胸の高鳴りを感じながらも、ジークは少し明るい口調で答えた。

「お前ほど手のかかる仲間はいないからな。忘れろと言われても、忘れてやらないさ」
「……ちょっと、それどういう意味?」
「言葉通りなんじゃないか?」
「うわぁ、腹立つ言い方――って、こら、逃げるなぁっ!」




 出会い、別れ――生きて死ぬこと。
 思い出と記憶は心に刻まれ、語り継がれていく。
 別れに胸が痛まないとすれば、そこにどれほどの意味があるだろう。
 彼らは未来へと歩いて行く。そしていつの日にか、蜂と英雄の紡いだ物語も、語り継がれる日が来るのだろう。
モドル | モクジ