その後の悪魔くん


 エロイムエッサイム エロイムエッサイム――

 呪文が闇に吸い込まれ、魔法陣が輝きを放つ。両手の指で頭上に三角形を作り、胸の前へと移動した後、手首を返して反対にすることで六芒星が生まれる。それは、彼がしもべの悪魔を呼び出す儀式。

 エロイムエッサイム エロイムエッサイム――

 大都会の裏側。人通りも途絶えた真夜中の路地に、悪魔くん――埋れ木真吾はいた。少年時代から時は流れ、伸びた手足とスーツにネクタイ。しかし、眼差しだけはあの頃と何ら変わってはいない。その十メートルほど先で、向かい合うように立つ一人の男。姿はよく見えないが、暗がりの中で片眼だけが異様にくっきりと浮かび上がっていた。

 我は求め訴えたり――!

 天と地を指し、真吾は叫ぶ。
 さらに輝きを増した魔法陣から、魔力が渦を巻いて立ちのぼっていく。
 悪魔くんを見つめる男のタバコが、闇の中で赤く火をともしていた――




 〜その後の悪魔くんPlus〜




 初めてその噂を聞いたのは、中学三年生の頃。
 当時、埋れ木真吾は『悪魔くん』としての使命を勤めるかたわら、高校受験に向けて試験勉強に追われていた。しかし、悪魔の起こすトラブルを解決しつつ勉強するというのはやはり厳しく、成績はさっぱり振るわなかった。

「――埋れ木、このままじゃ志望校にはとても受からないぞ?」

 禿げあがった頭の担任が、赤い点数の答案用紙を突き出して言う。それを受け取った真吾は、肩を落として自分の席へと戻る。はあ、と深いため息をついていると、答案用紙を受け取って戻ってきた貧太が真吾の前で立ち止まった。

「調子でないみたいだねえ、悪魔くん」
「ははは……頑張ってはいるんだけどさ」
「やっぱり、あっちの仕事が忙しいのかい?」
「近頃はわりと平和だったんだけどね。遅れた勉強を取り戻さなくちゃいけないし、そのせいで眠くて眠くて……ふわあ」

 大あくびをして眼に涙を溜めていると、貧太が思い出したように手をポンと叩く。

「そういえば、情報屋が何か話したいことがあるってさ」
「情報屋が? 何だろう」

 たぶん街で集めた悪魔の噂を教えてくれるのだろうが、情報屋は隣のクラスなので、話を聞くには放課後まで待つ必要がある。それに放っておいても向こうから話しかけてくるだろうと思い、真吾はすぐにその事を忘れてしまった。
 午後の授業も全て終わり、下校時間のチャイムが鳴り響く。教室を出た真吾は、下駄箱までやってきて足を止める。他の生徒の邪魔にならないよう壁に背を預け、待つこと数分。真吾がやってきたのと反対方向、下級生達の教室がある校舎の方から、のんびりとした歩調の少女が姿を現した。
 身長は真吾の目線くらいでやや小柄だが、すらりとした体型で黒のソックスにセーラー服、そしておかっぱにした髪がよく似合っている。彼女は真吾と視線が合うと小走りで近づき、くりっとした丸い瞳で見上げてきた。

「悪魔くんっ」
「やあ、幽子。今日は早かったじゃないか」
「も、もうっ、まだそれを言うんだから〜〜」

 やや間延びした口調で、頬を桜色に染めて可愛らしく恥じらうのは、真吾の仲間である十二使徒のひとり、第四使徒の幽子。
 彼女は今、真吾の通う中学校に一年生として通っていた。というのも、真吾が中学校に進学して背が伸び始めた頃から、幽子も人間の学校に通いたいと言いだしたからだ。内気な彼女がずいぶん思いきった事を言い出したと他の仲間達も驚いたものだが、幽子の決意は固く、後輩の一年生として同じ学校で――見えない学校でも同じなのだが――学園生活を送ることになったわけである。
 ちなみに幽子がここに入学した時、なぜか年相応の背格好に成長していた。どうやったのかは真吾にも謎であるが、可愛いのでいいやと思っている。

「入学したての頃は、ここまで辿り着くのにひと苦労だったもんな。はははっ」
「悪魔くんのいじわる」
「ごめんごめん、つい思い出しちゃって」

 初めのうち、幽子は人の多さに目を回してばかりいた。多くの生徒がひしめく廊下を進むのもやっとで、初日などは教室から玄関まで三十分も時間がかかってしまう有様だった。今ではだいぶ慣れ、人の流れに戸惑うこともない。

「それじゃ行こうか」
「うん」

 気心の知れた笑顔を見せ合うと、二人は肩を並べて歩き出す。こうして帰り道を共にするのはもはや習慣であり、真吾のひそかな楽しみの時間でもあった。

「――へえ、頑張ったじゃないか」
「それでね〜〜」

 信号待ちをしながら、真吾と幽子は二人の世界に突入して会話を楽しんでいた。幽子は話をする時に首を小さく傾げるクセがあり、その度に髪の先がふわりと揺れる。その仕草を見るたびに、真吾はついドキッと――

「悪魔くーーーーんっ!」

 ドキッと――

「うわあっ、じょ、情報屋!?」

 違う意味でドキッとしてしまった。
 飛び上がりそうになって振り返ると、一眼レフカメラを首からぶら下げた坊主頭の少年――情報屋が大きな声を上げて駆け寄ってきた。メガネと出っ歯の、どこにでもいそうで一度見たら忘れられない顔は健在である。

「探したんだぜ、悪魔くん」
「……あ、そういえば貧太くんが情報屋のこと話してたっけ」
「さっさと帰っちゃうんだもんなー。っと、それより聞かせたい話があるんだ」
「聞かせたい話?」
「ここじゃまずい。幽子ちゃんもこっちへ」

 真吾と幽子の間に割って入った情報屋は、二人の腕を引っ張って人気の少ない角へ連れて行く。

「もしかして、悪魔絡みかい?」

 真吾が尋ねると、情報屋はコクリと頷いてメガネの位置を直す。

「悪魔くんは、街に出没する不思議な少年の噂を聞いたことはあるかい?」
「……いや」
「どこからともなく現れて、人を困らせる悪魔と戦って追い払うんだってさ」
「なんだって?」

 真吾と幽子は、情報屋の話に顔を見合わせる。そんなことをしている人物がいるとは想像もしていなかったし、自分達より先に悪魔の気配に気付き、そのうえ追い払うなど、人間業とは到底思えなかった。

「まるで悪魔くんみたいね」
「僕も最初は悪魔くんの事だと思ったんだけど、詳しく聞いてみると別人らしいんだ」
「一体、誰なんだろう……」
「本物の悪魔くんとしては、やっぱり気になるだろ?」
「ま、まあ、確かに……」
「他に何か情報が入ったら教えるよ。じゃあな!」

 そう言って、情報屋は走り去っていく。真吾と幽子は、彼の背中をポカンと見つめていた。




 自宅に戻った真吾は、タロットカードで占ってみることにした。床に腰を下ろし、シャッフルしたカードから二枚を引き抜いて置く。

「星のカード……戦車の逆位置……うーん」

 星のカードは希望や憧れ、上下が逆さまになった戦車のカードは、暴走や挫折といった意味を示している。占いの結果は、これから自分に影響を与える人物との出会いを暗示していた。

(近いうちに会う、ということか……)

 真吾の脳裏に、情報屋から聞いた噂がよぎる。悪魔と渡り合うという謎の少年。彼との出会いが自分にどんな影響をもたらすのか――そんなことを考えていると、

「お兄ちゃん、夕ご飯の用意できたわよー」

 妹のエツ子が、ドアを開けて部屋を覗き込んでいた。幽子と同じく中学一年生になったエツ子は、近頃ますますメフィスト二世にべったりである。兄としては手がかからなくて嬉しくもあり、少し寂しくもあり。

「ああ、今行くよ」

 真吾はカードを片付けて立ち上がると、一階へと降りていった。
 食卓にはすでに料理が用意されていて、両親とエツ子、メフィスト二世と百目、そして幽子が座って真吾を待っていた。幽子は中学校に通い出した頃から、表向きは埋れ木家に下宿しているという事にしているから、食事もこうして一緒になったわけだ。
 ちなみに、今夜のメニューはとんかつ。メフィスト二世だけはエツ子の特製ラーメンだが。

「いただきまーす!」

 真吾は両手を合わせ、夕食に箸をつけ始めた。隣では幽子が行儀良く白米を口に運び、彼女の頭に住む豆幽霊たちも小皿を囲んでいる。

「どう、おいしい?」
「ぷはーっ、うめえ! ほとんどママさんの味に引けを取らないぜ。この調子なら追い抜く日も遠くないかもな、エッちゃん」
「やだあ、メフィスト二世さんたら上手なんだから」

 エツ子とメフィスト二世は、いつもながら仲良く――というかいちゃいちゃしている。仲良きことは素晴らしき哉、とはよく言ったものだが、それにしたって限度はある。というか、兄が色々と遠慮しているのに目の前でこうも見せつけるのはどうだろう。
 そもそも、兄に分配されるべき妹の愛情をメフィスト二世が横取りしているこの構図。考えているうちに、真吾はちょっと腹が立ってきた。

「えーと、お前達。なんというか、その、もうちょっと遠慮というものを――」

 ゴホン、と咳払いをして二人に横やりを入れようとしたその時。

「……速報です。街中に怪物が現れ、周囲の建物に火を放っています。○×区付近の住民の方は避難を――」

 付けっぱなしになっていたテレビから、緊急速報が流れる。画面に映っていたのは、無数に生えた頭から火を吐く、奇怪な魔物の姿。身体は大きく四本足で、自動車を踏みつけて街を走り回っている。

「久々にでかいのが出やがったな。行こうぜ悪魔くん!」
「よし!」
「わ、私もっ」

 真吾とメフィスト二世、幽子は箸を置き、急いで家を飛び出して行くのだった。




 奇怪な獣が、ビルの建ち並ぶ街中で火を噴いていた。馬の胴体に人間の腕が六本生えており、七つもある長く伸びた首の先には、龍に似た顔が鋭い牙を生やして蠢いている。現場にたどり着いた時、一瞬だけ視線を感じたが――すぐに消えた。気のせいだったのかと真吾が首を傾げていると、

「これまた、えらく不気味な悪魔だなぁ」

 メフィスト二世が、マントの裾を広げて呟く。服装は昔と変わらぬタキシードとシルクハット姿だが、彼も身長が伸びていてずいぶん大人っぽくなっている。真吾の良き友人として、そして頼れる仲間としてメフィスト二世も成長していた。
 路上を走り回っている悪魔を見ながら、メフィスト二世は真吾に尋ねる。

「見たことがねえ奴だが――悪魔くん、分かるか?」
「あれは……魔獣フォービだ」

 フォービとは、あちこちに火を付け回る凶暴な魔獣である。原因不明の火事が続く時は、このフォービの仕業であるという。しかしその出自には謎が多く、正体がはっきりしない存在として文献に記録されている。

「――どうして現れたのかは知らないけど、放っておいたら辺りが焼け野原になってしまうぞ」
「よし、さっさと片付けちまおうぜ」
「幽子は危ないから下がってて。頼むぞ、メフィスト二世!」
「任せとけ!」

 マントをひるがえし、メフィスト二世は宙を舞う。手にしたステッキをくるりと回し、

「食らえっ! 魔力、イナズマ電撃!」

 先端に付いた宝玉からほとばしる閃光が、矢のようにフォービの身体を貫く。魔力を強力な雷撃と化す、メフィスト二世の得意技である。が――

「グワーーーッ!」
「ちっ、効いてないのかよ」

 普通なら黒こげになってしまう電撃を受けてなお、魔獣フォービは何事もなかったかのようにうなり声を上げている。

「電気がダメならこいつはどうだ! 魔力、絶対零度!」

 気を取り直し、メフィスト二世は魔力を極低温の吹雪に変えて吹き付ける。炎を吐く怪物は寒さを苦手としている者が多く、その弱点を突いたのだ。フォービにもやはり効果があったらしく、巨大な身体は冷気の渦に巻かれて凍りつき、氷像となって動きを止めた。

「よし、いいぞ!」
「へっ、どんなもんだ」

 真吾はメフィスト二世の元に駆け寄り、氷漬けになった魔獣の姿を見上げる。間近で見るとやはり大きく、無数に生えた腕や首は不気味だ。

「しかし、早めに動きを封じることが出来て良かった」
「けどよ、もうちょっと手応えがないとあくびが出ちまうぜ」

 メフィスト二世は氷像をコンコンと小突き、得意げに笑う。ところがその瞬間、氷漬けになったフォービの目が、ギロリとこちらを睨みつけたのを真吾は見逃さなかった。

「離れろ、メフィスト二世!」
「おわっ――!?」

 直後、フォービは氷の檻を粉砕して復活し、七つの首のひとつが強烈な火炎を吐き出した。真吾は矢のように飛び出してメフィストを突き飛ばし、間一髪で炎を免れた。的を外した火炎は近くにあった街路樹を焼き、あっという間に燃えかすにしてしまう。

「あ、危なかった……」
「野郎――!」

 真吾を下がらせたメフィスト二世は素早く立ち上がると、シルクハットに手を当ててフォービを睨みつけた。

「二度と火を吹けないようにしてやる!」

 魔力ハットノコギリ――そのかけ声と共にメフィスト二世のシルクハットが高速回転、触れるものを切り刻む刃となって、蛇のようなフォービの首を次々に切り落としていく。七つ全ての首を切り落としたハットは、ブーメランのように主の元へ戻る。
首を失ったフォービは、叫び声を上げることもなく立ち尽くしたままだ。

「今度こそ、ぐうの音も出ねえだろう」

 メフィスト二世は手元に戻ったハットを指先で回し、口元に弧を浮かべる。しかし、その笑みは長続きしなかった。地に落ちたフォービの首は音もなく浮き上がると、切断された部分を合わせてくっつき、元通りになってしまうのだった。

「こ、こいつ……不死身か!?」
「一旦離れよう、メフィスト二世!」

 メフィスト二世は舌打ちしながら頷き、真吾を抱えて後方へ飛ぶ。攻撃がことごとく効かなかった事に、彼はかなりいらついている様子だ。ヘタに動かないように釘を刺すと、真吾はフォービを見た。逆上したフォービは手当たり次第に火を噴き、激しく飛び跳ねて怒りをあらわにしている。これ以上手を出しても、おそらく火に油を注ぐようなものだろう。

「聞いてくれ、フォービ! なぜ君はこんな事をする? なぜ人間の街で暴れるんだ?」

 両手を広げ、魔獣の前に立ちはだかる真吾。フォービは四方に向けていた首を集め、一斉に睨みつけた。

「わしが寝ている間にここへ連れてきて、目覚めさせたのはお前たち人間だろう。わしは自分の役目を果たしておるだけだ。邪魔をすると踏み潰すぞ!」

 ビルの窓ガラスが震えるような声で吠え、フォービは真吾を飛び越え暴走を始めた。

「よせ――!」

 乗り捨てられた自動車を踏み潰し、フォービは手当たり次第に炎を吐く。振り返って後を追おうとした真吾は、フォービの向かう先を見て愕然とした。

「幽子!?」

 下がるように言っておいた幽子が、荒れ狂うフォービの先にいたのである。

「逃げろ幽子!」

 真吾は叫ぶが、彼女は足がすくんでいるのか、その場に立ち尽くしたまま動こうとしない。駆け寄ろうにも、距離が空きすぎて到底間に合わない。やがてフォービは幽子の目前に迫り、無慈悲な炎を浴びせかけた。

「悪魔くん――!」
「幽子ーーーーーーッ!」

 紅蓮の炎に、幽子が飲み込まれていく。真吾は言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまう。が――

「……おい、アイツは誰だ?」

 真吾の肩越しに様子を見ていたメフィストが言う。よく目を凝らしてみると、幽子の前で炎を弾き返すもうひとつの影があった。
 ジーンズと長袖のシャツを着た少年――年齢は真吾と同じくらいかやや年上か――が、黒と黄色の横縞が入った布を大きく広げ、フォービの火炎を押し返している。炎を全て受けきった少年は、すかさず布をロープのように細長く変化させ、七つの首を縛り上げていた。フォービはもがき苦しみ暴れているが、少年は地面に根が生えたようにどっしりと構え、ビクともしてしない。
 少年の傍らにはタイトなワンピース姿の女性がいて、地面に座り込んだ幽子に手を差し伸べている。

「幽子、無事か!?」

 幽子の元へ駆け寄って無事を確かめると、真吾はホッと胸を撫で下ろす。

「危ないところだったわね。ケガはない?」
「は、はい……ありがとうございます〜」

 女性は幽子に優しく微笑みかけた。大人っぽくて縦長の瞳孔が特徴的な、とびきりの美人だ。

「仲間を助けてくれてありがとう。でも、君たちは一体……?」

 真吾は女性に頭を下げた後、不思議な雰囲気を纏う少年に視線を向けた。少年はフォービを縛り上げたまま、振り返りもせずに言う。

「こいつは影だ。近くに本体がいて、姿を消して操っているんだろう」

 少年の頭髪がピンと立ち、フォービの背後にある街灯の上を指していた。

「あの辺にいるらしい。そこの二人、どっちか正体を見破れないか? 君らも妖怪だろ」

 ここへ来た時に感じた視線の主は、どうやら彼だったらしい。しかし、派手に暴れていたメフィスト二世はともかく、幽子まで一目で見抜くとは只者じゃない事は確かだ。

「よし、幽子。照魔鏡で敵の正体を探してくれ」
「はいっ。照魔鏡〜〜〜!」

 魔力を吸収、反射する幽子の魔界道具、照魔鏡。そこから発せられた光は、魔力によって隠されたものの姿を浮かび上がらせることも出来る。

「あいつがフォービの正体か!」

 照魔鏡が街灯の上を照らすと、じゃがいものようなデコボコ石に手足が生えた、小さく奇妙な生き物が浮かんでいた。身体の表面には無数の穴が開いていて、そこから絶えず火を噴き出している。

「けっ、どんな野郎が本体かと思ったら、石コロかよ」

 メフィスト二世が吐き捨てると、少年はやはり背を向けたままで

「じゃあ、石コロの相手は君に頼むよ」

 と、平坦な声で言う。少しムッとしたものの、メフィスト二世はマントを広げてステッキをかざす。

「魔力、イナズマ電撃!」

 メフィスト二世渾身の一撃が、石のような本体を直撃する。さすがにこれは効いたらしく、糸が切れた凧のようにフォービは落ち、少年が縛り上げていた魔獣は煙のように消えてしまう。さらに幽子の照魔鏡で魔力を吸い取ると、フォービはもの言わぬ石となって封じられた。
 影の魔獣を縛っていた布は再び形を変え、少年の身体に貼り付いて縞模様のセーターになった。

「――こいつは外国の祠に祀られていた妖怪で、博覧会のために持ち込まれたらしい。けど、人間が粗末に扱ったせいで、怒って目を覚ましたんだろう」

 少年は石ころを拾い、そう言って真吾に手渡す。長い前髪で顔半分を覆った、隻眼の少年は真吾をじっと見つめた後、ポケットからタバコを取り出して火を付ける。

「後は頼んだよ、悪魔くん――」
「ま、待ってくれ!」

 言うだけ言って背を向けた少年を、真吾は呼び止める。少年は立ち止まると、顔だけ振り向いて見せた。

「君は一体何者なんだ? それに、どうして僕のことを知ってる……?」

 少年はしばし紫煙をくゆらせた後、真吾をじっと見つめてタバコを捨てた。

「僕は鬼太郎。有名人がどんな奴か、一度会ってみたくてさ。悪魔くんは楽園を作るために頑張ってるらしいじゃないか」
「あ、ああ。それが僕たちの夢だから」
「そうか……立派なもんだ」

 鬼太郎と名乗った少年は、顔を戻して再びタバコに火を付ける。

「鬼太郎、君も悪い悪魔と戦ってるんだろ? だったら僕と一緒に――」
「いや、僕にはそんな大それた事、向いてないよ」

 そう言って、鬼太郎はポケットに手を突っ込んで歩き出す。連れの女性がその姿に軽くため息をついた後、

「ごめんね、鬼太郎ったら素っ気ない態度で。でも、ホントはあなたのこと応援してるのよ。頑張ってね」
「は、はい。ありがとうございます」
「私は猫娘。またどこかで会うかもしれないし、その時はよろしく」
「う、あ、こ、こちらこそ……」

 猫娘と名乗った彼女のウィンクにしどろもどろになっていると、向こうから鬼太郎が呼ぶ声がする。

「何してるんだ猫ちゃん。早く行こう」
「あ、うん――それじゃ、悪魔くんも彼女と仲良くね」

 最後にさらっと爆弾発言の置きみやげを残しつつ、猫娘は鬼太郎と共に去っていった。

「ちぇっ、気取りやがって。でも驚いたぜ、俺達以外にあんな魔力を持った奴がいるとは」
「ああ、表には出さなかったけど……ものすごい力を秘めてた」
「だけどあの人、優しい目をしてたわ〜」

 真吾たちは、鬼太郎と猫娘が見えなくなるまでその場で見送り続けていた。

(鬼太郎、か……僕の知らない、あんなすごい奴がいたなんて――)

 勝ち誇るわけでもなく、大きな理想を掲げて語るわけでもない。何も言わず、求めず、ただ誰かを助けて去っていく――そんな鬼太郎の姿が脳裏に焼き付いて離れない。真吾の胸に、言葉では表せない感情が去来していた。
 その後、フォービの石は真吾の手で魔界に運ばれ、二度と暴れ出さないよう祠に安置された――



 メフィスト二世は一足先に飛んで帰り、真吾と幽子は徒歩で帰ることに。二人並んで歩き出したものの、真吾はなかなか言葉を紡ぎ出せずにいた。ひとつ路地を入ってみると、周囲の住民はみんな避難していて人気がない。
 幽子と二人っきり。
 その事実に、つい真吾は落ち着きを無くしてしまう。幽子を意識し始めたのはいつからだったのか――最初のうちは妹のように接していたし、彼女が自分を慕うのもそうだと思っていた。
 しかし年頃の姿に成長し、とても女の子らしい表情や仕草を見せる幽子と過ごしているうちに、自分の心境も知らず変化していたのである。そして今日、真吾はその思いをはっきりと理解する。幽子が魔獣の炎に包まれた時、そして彼女が無事と分かった時の気持ち――

「あ、あのさ、幽子……」

 真吾は足を止め、行きすぎようとした幽子の手を取る。振り返った彼女の柔らかな髪が広がり、澄んだ瞳が真吾を映す。

「ど、どうしたの?」
「……ごめん」

 何のことだか分からないと言った表情で、幽子はキョトンとしている。

「幽子をあんな危ない目に遭わせて、何も出来なかった……それが情けなくて」
「悪魔くん……」
「君にもしもの事があったら、僕は――」

 言い終わらぬうちに、幽子は目を伏せ首を振る。再びゆっくりと開いた瞳は、真っ直ぐに真吾を見つめて。

「私もとろかったし〜……悪魔くんはいつでも一生懸命頑張ってるわ。だから謝らないで」
「ありがとう。今度は絶対に守ってみせるから」
「悪魔くん……」
「幽子……」

 二人は互いに手を取り合い、距離を縮めていく。少しずつ、少しずつ。
 互いの吐息が感じられる。握りしめた手が汗ばむ。心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。目を閉じ、唇がそっと、そっと近づき――

『ユ〜レイヒ〜』
「!?」

 突然の声に目を見開くと、幽子の髪から無数の白い物体が浮いていて。真吾は引きつった表情で固まってしまった。

「豆幽霊はあっちいってェ〜! いつもいつも〜〜〜!」
『ゴメンネ〜ユウコちゃん〜〜〜』
『じゃまするつもりはなかったのヨ〜〜〜』

 ぷんすかと怒る幽子の周りで、豆幽霊たちが歌いながら飛ぶ。すっかりキスのタイミングを削がれた真吾は、ただただ渺茫の涙を流すのだった。




 真吾が鬼太郎と出会ってから、数年の年月が流れた。どうにか高校にも進学でき、大学にも進んで卒業して。今ではネクタイを締めて、普通の企業に勤めている。
 そして駆け抜けるような恋をして、色々な思い出を作り――幽子と結婚式を挙げたのはつい一月前のこと。今では新婚ほやほやの、ちょっと自分達でも恥ずかしいくらいのラヴラヴっぷりだと思う。

「おかえりなさい、ごはんにする? お風呂にする? それとも――」
「じゃあ……ちょっとだけ幽子を味見」
「もうっ、悪魔くんたらぁ〜〜」

 まあ、新婚夫婦がちょっとどころですむわけはないのだが。そんなこんなで幽子をひざの上に乗せていちゃいちゃ(以下略)などのお約束もたっぷり堪能している。
 だが、流れゆく時の中でも真吾は決してあの日の出来事を忘れてはいない。鬼太郎の実力とその行動は、いつまでも鮮明に真吾の記憶に残り、まだまだ終わりの見えない楽園への夢を繋ぎ止めている。




「やあ、久しぶりだな。君も例の奴を追ってきたのかい」
「その声、その顔……全然変わってないな鬼太郎」

 夜も更けた都会の裏側で、スーツ姿の真吾は一人の少年と向かい合っていた。ジーンズに、黒と黄色の縞模様が入ったセーター。長い前髪に片眼を隠した隻眼の少年――鬼太郎は、くわえタバコのままで微笑む。

「そっちはずいぶん頼もしくなったじゃないか、悪魔くん」
「あれから僕は――あの日からずっと、君に笑われないように訓練を続けてきたんだ。タバコは真似したら怒られたけど」
「言うのは簡単だけど、なかなかできる事じゃない。さすがだな」
「へへ、ありがとう」

 真吾も口の端を持ち上げて微笑むと、闇に包まれた路地の奥を見る。黒に塗りつぶされた向こうから、ぽうっと赤い光がゆらゆら、ゆらゆらと揺れながら次第に大きくなってくる。
 ウィル・オ・ザ・ウィスプ――ひとつかみの藁のウィリアムと呼ばれるこの悪魔は、嘘つきが過ぎて天国にも地獄にも入れてもらえず、この世を永遠に彷徨う魂のなれの果てだという。救われぬ哀れな鬼火は人を危険な道に誘い、時には死に至らしめるのだ。

「残念だけど、今夜は君の出番はないよ鬼太郎!」

 エロイムエッサイム エロイムエッサイム――

 我は求め訴えたり――!

「出でよ、第二使徒ユルグ!」

 魔法陣に生じた魔力の渦から姿を見せたのは、蒼き狐の悪魔ユルグ。寡黙だが、炎を自在に操る頼もしい仲間だ。

「ユルグ、炎のことは君が一番だ。あいつの魔力を封じてくれ!」
「わかった、まかせてくれ」

 ウィル・オ・ザ・ウィスプめがけて疾風のように駆けるユルグ。真吾は首に掛けた古びたオカリナを口に当て、目を閉じてメロディーを奏でた。

(真のメシアとなる資格を認められて、ソロモンの笛は戻ってきた――届け、君の心に)

 心に語りかける優しい音色が、静寂の路地に響き渡っていく。鬼太郎はタバコの紫煙越しに、真吾をじっと見つめていた。

「僕の夢……いつか君と一緒に見られるかもな」

 鬼太郎は満ち足りたように呟き、その姿はゆっくりと闇の中へ溶け込んでいく。

「コーン・エッサム・コーン!」

 ユルグの狐火が、ウィル・オ・ザ・ウィスプの魔力と打ち消しあって動きを封じ、笛の音が鬼火に安らぎと導きを示す。
 慰めと心の平安を得た魂が天に帰った時、鬼太郎は火の着いたタバコを残して消え去っていた。
 その後、真吾がいくら探しても、鬼太郎に会うことはできなかったという。

(きっとどこかで君は見てるんだろうな……僕は必ず夢を叶えてみせるから、鬼太郎も頑張れよ――)

 見上げた夜空の向こうから、からん、ころん、と下駄の音がした――


















 〜おまけ〜




「おかえりなさいパパ」

 愛しい妻が僕を出迎えてくれる。
 どんなにくたびれていても、彼女がいればぜーんぶ吹っ飛んでしまうってもんだ。

「今日も一日ご苦労様。ご飯にする? お風呂にする?」

 こう聞かれて、返す返事はひとつ。そっと妻の肩を抱いて、

「じゃあ、先に幽子」
「やだぁ〜〜悪魔くんったらぁ〜〜〜」

 すでにお約束。何人も僕ら夫婦の間を裂くことは――

「うるせぇっ! 何時だと思ってんだっ!」

 バァン! とドアを開けて怒鳴り込んできたのはパジャマ姿のメフィスト二世とエツ子。
 この二人も色々付き合った後、落ち着くところに落ち着いて、埋れ木家で一緒に暮らしていたりする。メフィスト二世はラーメンに餌付けされたような気がしないでもないが、黙っておこう。

「俺は明日早番なんだぞ」
「いつものことよ〜〜もう寝ましょ〜〜?」

 ブツブツ言うメフィスト二世を引っ張って、エツ子は自分達の部屋へ戻っていく。うるさいと言われたが、あの二人だってしょっちゅう大きな声で頑張って――いや、これ以上は言うまい。
 ただ、お前らもうちょっと遠慮しろとだけは言っておきたいけど、言っても無駄だろうなあ。
 その夜は晩ご飯を食べて、風呂に入って。幽子とひとつのベッドでゆっくり眠った。

「ん……ふわあ」

 翌朝、僕は仕事が休みなのでいつもより遅くまで寝ていられた。メフィスト二世もエツ子も出かけていて、のんびりとした目覚めだ。ふと目をやると、スリップ姿の幽子が座ったまま僕を見つめている。心なしか目が潤んでいるような気が。

「やあ、おはよ――!?」

 次の瞬間、いきなり唇を奪われた。いやまあ、すでに奪うとかそういう地点は通り越して――って、そうじゃない。

「ど、どうしたんだ幽子」
「だって……昨夜おあずけだったから」

 真っ赤になりながら上目遣いで見上げてくる仕草が犯罪的に可愛い。埋れ木真吾、通称悪魔くんといえども健康優良な男子であれば、新妻相手にブレーキが効くものか。
 朝っぱらから夫婦の絆をより深く確かめることになってしまった。ちょっといつもよりドキドキしたのは内緒だ。

「あくまくんのエッチ……」
「……ゴメン。てゆーか、あの格好で迫られたら」

 恥じらう姿も照れ笑いも、まだ僕らが恋をしている証。
 まだ当分、やめられそうもないや。