その後のさらにその後の鬼太郎

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 大都会の片隅にある安アパートの階段を、片手にビニール袋を下げた女がヒールの音を立てながら登る。大人びたワンピースの美女であった。艶のある柔らかい髪を後ろでまとめ、水晶玉のように丸く透き通った瞳。唇から覗く可愛らしい八重歯。彼女の名は猫娘――文字通り猫の妖怪である。大人へと成長した彼女は、人間社会で上手く生活するため大学に通っている。現代は妖怪にも教養と学歴が必要とされる時代らしい。学費と生活費はアルバイトで工面しており、上手く世間に溶け込んでいた。猫娘は鼻歌を歌いながら二階の通路を進み、奥からひとつ手前のドアに手を掛けた。

「ただいまー」

 脱いだ靴を揃え、部屋の奥に進む彼女を出迎えたのは、丸テーブル横で寝転がっている若い男と、テーブルの上に置かれたお椀の脇で『立っている目玉』がひとつ。

「おお、戻ったか猫娘」
「おかえり、猫ちゃん」

 黄色と黒の縞セーターを着た男は身体を起こし、女からビニール袋を受け取る。中身をまさぐって缶ビールを取り出すと、蓋を開けてぐいっとあおる。

「ぷはぁ、やっぱりうまい」

 飲みながら、今度は安いウィスキーのボトルを取り出す。片手で器用に蓋を開けると、お椀に指一本分くらい入れ、ポットの湯をなみなみと注ぐ。小さな身体と手足を持つ目玉は、嬉々としてそれに飛び込んで飲み始める。

「おお、極楽じゃ〜」
「鬼太郎もお父さんも、夕飯の前に飲み過ぎちゃだめよ」

 猫娘はビニール袋の中にある食材を取り出して整理し、てきぱきと片付けている。そんな彼女の後ろ姿をじっと見ている男の名は、鬼太郎。様々な能力と強い妖力を持つ幽霊族の末裔で、かつては目玉となった父親と共に妖怪と人間の共存を目指し、人助けを請け負っていたのだが。

「そうだ、猫ちゃん」
「なあに?」

 鬼太郎はあぐらをかいてビールを飲みながら、無造作に右手を伸ばす。

「また……なの?」
「入り用なんだ。色々とね」
「こないだ渡したばっかりじゃない」
「もう無くなっちゃったよ」

 数ヶ月前から、鬼太郎は猫娘から金の無心を繰り返していた。人間社会に出てきて暮らし始めたものの、世渡りが上手いとは言えない鬼太郎は世間の荒波に揉まれて傷ついてしまう。頼りになるのは腐れ縁のねずみ男だけ。気付いたときにはすっかり堕落し、人助けを放棄し、世の中の穢れが染みついてしまっていた。猫娘が鬼太郎と再会した時、鬼太郎の暮らしぶりは信じられないほど荒んでいた。だから彼女は決めた。自分が鬼太郎の傍にいてあげようと。大好きな鬼太郎。少しでも彼の支えになれればと思った。そして猫娘は鬼太郎との同棲を始める。めちゃくちゃな暮らしぶりを見直したこと、そして猫娘が傍にいたことで、鬼太郎は少しずつ自分を取り戻していく。年頃のエッチな性格はあまり変わらなかったが、それは自然なことであるから大きな問題じゃない。問題なのは、鬼太郎が自分の知らないところで何かをしているということ。人助けをしなくなったので、彼の行動といえば部屋でのんびりしているか、たまにふらりと出かけるくらいである。外出が気になるわけじゃないが、お金を要求してくるとなると話は別だった。

「ねえ、鬼太郎」
「ん?」
「そのお金、何に使ってるの?」
「……猫ちゃんは知らなくていい」

 いつもこうである。何度尋ねても、鬼太郎は決して答えようとはしない。鬼太郎と口論するのも嫌だったから、それ以上踏み込んで聞くこともできない。

「――ちょっと行ってくる」

 何より不安を煽るのがこれだった。お金を受け取ってすぐ、鬼太郎は出て行ってしまう。そして、帰ってくるのは夜遅く。不安になるなという方が無理である。鬼太郎は受け取ったお金をポケットに突っ込むと、煙草をくわえて出て行ってしまった。

「鬼太郎……」

 鬼太郎のことは誰よりも信用している。それでも、日ごと強くなる猜疑心。どうしようもないくらいに苦しくて、寂しくて、切なくて。

(もしも、もしも鬼太郎が……ううん、確かめもしないで私は)

 ぷるぷると首を振って悪い考えを振り払い、猫娘はぎゅっと唇を噛む。教えてくれないのなら、自分の目で確かめに行くしかない。目玉のおやじはウイスキー風呂で上機嫌に酔っぱらっている。しばらくはこのまま置いておいて良さそうだ。猫娘は心を決めると、鬼太郎の後を追って部屋を出て行った。




 空には沈みかけた太陽の朱と、染みわたる闇の紫紺が混じり合っている。街を覆う昼と夜の隙間――逢魔が時とも呼ばれるこの時間には、影が長く地を這う。細長く伸びた鬼太郎の影を、猫娘は追い続けていた。途中でコンビニに立ち寄った鬼太郎は、両手に大きな袋をぶら下げて出てきた。弁当やおにぎり、サンドイッチにビールにお酒。遠目からでも食料が山と買い込まれているのが分かる。

(夕食は作ってるのに……)

 鬼太郎は新しい煙草に火を付け、再び歩き出した。猫娘も距離を保ち、気付かれないように付いていく。三つほど角を曲がったところで、鬼太郎が足を止める。向こうから歩いてきたのは、黄土色の小汚いマントを羽織った男――ねずみ男だった。ねずみ男は鬼太郎に声をかけ、何事か喋り出す。猫娘は物陰に隠れ、聞き耳を立ててみる。

「よお鬼太郎、今夜もアレか?」
「ああ」
「お前も好きだねぇ」
「何が言いたいんだ?」
「いや、止める気はねぇヨ。せいぜい頑張りな、このスケベ」
「……おまえ」

 じろりと睨みつける鬼太郎の視線をかわし、ねずみ男は通り過ぎていく。隻眼の瞳を正面に向けると、鬼太郎は再び歩き始めた。

「ビ、ビ、ビビビのビ〜」

 ねずみ男が妙な鼻歌を歌いながら歩いているところを、猫娘が捕まえて物陰に引きずり込む。

「うわっ、猫娘じゃねぇの」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「あ? 情報量はビタ一文――」

 言いかけるやいなや、喉元に鋭い爪が当てがわれる。

「な、何を聞きたいのでしょう猫娘サン」

 冷や汗をかきながら敬語で答えるねずみ男。

「あんた、鬼太郎と何を話してたの?」
「う、それは……なんというか、その、アレだ」

 言葉を詰まらせ、ねずみ男は視線を泳がせて誤魔化そうとする。しかし、猫娘はねずみ男の襟首をぎゅっと締めて逃がさない。

「何か知ってるんでしょ! 洗いざらい白状しなさい!」
「か、勘弁してくれぇ。こればっかりは言えねぇんだ」
「どうして!?」
「お、お前のためを思って言ってるんだぜ俺ぁ。知らない方が幸せって事もあるのヨ」
「大きなお世話よ!」
「そ、それよりホラ、こんな所で油売ってていいのか?」
「あっ――!」

 ふと気付けば、鬼太郎の姿が見えない。これ以上問いつめても時間の無駄だろうし、猫娘はねずみ男を解放する。そして、鬼太郎が歩いて行った方向へ駆け出していく。

「……こりゃあ修羅場見るかもナ。しらねーぞ俺ぁ」

 ねずみ男はそう呟き、曲がったヒゲを撫でながら立ち去った。




 鬼太郎が大きなマンションに入っていくのを猫娘は見た。自分達が生活しているアパートとは比較にならない豪華な造りである。エレベーターに乗って、鬼太郎は上の階へと向かっている。隣のエレベーターに乗り、ランプが止まった十三階へと猫娘も向かう。今、彼女の胸には嫌な予感が激しく渦を巻いている。日が暮れてから、こんな所でピクニックというわけはあるまい。鬼太郎は誰かに会いに来たのだ。自分に内緒で会う相手――男友達というには、すでに苦しすぎる。となれば、相手は女。その方が自然だし納得もできるだろう。

(やだ……そんなの――!)

 わらにもすがる思いで猫娘はそれを否定した。鬼太郎は自分を裏切ったりしない。二人の気持ちは通じ合っている――この眼で確かめるまで、そう信じたかった。エレベーターが止まり、扉が開く。顔だけを外に出して様子を覗うと、通路の先に鬼太郎の背中が見えた。足音を立てないように後を付いていくと、鬼太郎はある扉の前で立ち止まる。呼び鈴のボタンを押してしばらくすると、かちゃりとドアが開く。

「やあ、また来たよ」
「待ってたわ……さあ、上がって」

 腰まで届く黒髪の、裕福そうで美しい女性だった。親しそうに微笑み、鬼太郎は女と部屋の中へと消えていく。

「きた……ろ……」

 言葉が出ない。足元がふわふわして定まらない。どうして自分はここにいるのだろう。ねずみ男は言った。知らない方が幸せなこともある、と。その通りになってしまった。のこのこ後を付いてきて、みじめな思いをすることになってしまった。世界が歪み、滲む。水晶玉のような瞳から涙がこぼれ、雫となって弾けた。その場に力なく座り込み、両手で顔を覆い隠して猫娘はうつむく。止めどなく溢れる涙と共に、溶けて消えてしまいたかった。

「何をメソメソ泣いてんの」
「――!」

 背後から声をかけたのは、ねずみ男だった。バツが悪そうに視線を外し、頬をポリポリ掻いている。

「気になって来てみたらコレだもんなぁ。見ちゃったのネ」
「……なによ。笑いに来たの?」
「ひでえなあ。俺ぁよ、お前らが痴話ゲンカで揉めたらいけねえと思って来てやったんだぜ」
「ほっといてよ! 鬼太郎は……私のこと……」
「あーあ、やっぱ勘違いしてらあ。アイツもちゃんと言わねぇから面倒なことに――」

 ねずみ男の言葉に、猫娘がピクリと反応する。

「勘違い――いま、確かにそう言ったわね」
「おうよ」
「どういう事なの? 教えてよ!」
「鬼太郎に口止めされてたんだけどヨ、実際に見た方が早ぇよな」

 ねずみ男は鬼太郎が入っていったドアの前に立つと、ノックもせずにドアを開けた。

「不用心だねぇ……まあいいや。ホラ、入れ」
「で、でも……」
「モタモタすんじゃないの」
「わかったわよ」

 導かれるまま部屋の中に入った猫娘は、奥から漂ってくる異様な妖気に気が付く。

「これは――!」

 薄暗い部屋の奥で、ガサゴソと何かを漁る音がする。カリカリこりこりと食べる音がする。そして、部屋の手前で鬼太郎とさっきの女性が立ち、奥の様子をじっと見つめていた。

「鬼太郎」
「猫ちゃん……来たのか」

 振り返った鬼太郎は目を丸くしていたが、すぐにいつもの表情に戻り視線を部屋の奥に戻す。

「ねずみ男。喋るなと言ったのに」
「仕方ねぇだろ。お前も彼女泣かせて偉そうにすんなっての」
「ねえ、何をしてるの?」

 何かをじっと見つめたまま、鬼太郎は部屋の明かりをつける。部屋の隅に、誰かが背中を丸めて座り込んでいる。コンビニの袋を引き裂いて、食料を手当たり次第にむさぼっていた。

「ガルルル……!」
「な、なにこれ!?」

 振り返った男の顔は、耳まで裂けた口に刃物のような鋭い牙が並び、眼は血の色。顔を含む全身に獣のような毛が生え、指先からは大きく曲がった鉤爪が伸びている。人のような獣のような、不気味な生き物だった。

「私の……兄さんです」

 女性が、涙を浮かべて呟いた。

「この人に、犬神という妖怪が取り憑いてしまったんだ」
「い、犬……!?」

 その単語を聞いて思わず後ずさる猫娘。ねずみ男はそれを見てシシシと笑う。

「猫娘は犬が苦手だろ。だーから鬼太郎が秘密にしろって言ってたわけよ」
「鬼太郎……人助けやめたんじゃなかったの?」
「やめたよ。流行らないし、儲からないし」
「じゃあ、どうして」
「けど……他に何をしたらいいのか、思いつかないんだ」

 妖怪に取り憑かれた男――犬神憑きと呼ぶ――から目を離さずに言う。その背中はどこか寂しそうで、けれどよく知っているもの。思い描いた理想を信じ、駆け抜けていたあの頃の面影を感じさせた。

「グワーッ!」

 犬神憑きの男がビクッと身体を震わせ、吠えた。そいつは涎を垂らしながら立ち上がると、振り返って鬼太郎の方を睨む。反射的に猫娘は鬼太郎の背中に隠れてしまう。犬は苦手だから。

「大丈夫だよ猫ちゃん。今夜でカタが付く」

 犬神は餓えた犬を殺して地面に埋め、怨念を増した霊が変化するのだという。その妖力は強いため、人間に取り憑くと追い払うのに骨が折れる。むりやり身体から追い出そうとすると、取り憑いた人間を殺してしまうこともある。鬼太郎はねずみ男からこの事件の話を聞き、地道だが安全で確実な方法を選んだ。犬神憑きの餓えを満たしてやり、満足して油断したところで妖力を吸い取っていく。しかし、一度に吸い取れる妖力には限界がある。だから鬼太郎は何度もここに通い、その都度に食料を持ってきていたのだ。鬼太郎は竹で出来た筒をポケットから取り出すと、栓を開けて犬神憑きに向けた。

「ウウウ……!」

 犬神憑きの身体から黒いモヤのような物が染み出し、竹筒に吸い込まれていく。モヤを逃がさないように栓をすると、魔封じの呪文が描かれたお札を貼り付ける。犬神の封印が今、完了したのである。全てが終わった後、男の身体はすっかり元に戻っていた。

「お兄さんはもう大丈夫ですよ」
「何とお礼を言ったらいいか……」

 深々と頭を下げた女性から礼金を受け取ると、鬼太郎たちはマンションを後にした。




「じゃあなお二人さん。せいぜい話し合うこった」

 ねずみ男は礼金の一部を分け前として抜き取ると、残りを鬼太郎に握らせて立ち去る。あたりはすっかり夜の闇に包まれ、街灯が夜道を静かに照らしていた。鬼太郎と猫娘は肩を並べて歩いていたが、互いに言葉を発しなかった。猫娘は鬼太郎の顔をちらちらと覗き込んでいたが、鬼太郎は煙草をくわえたまま反応を示さない。

「ね、ねえ……」

 沈黙に耐えきれなくなり、猫娘は立ち止まって声をかける。短くなった煙草を地面に落として火を消すと、鬼太郎は猫娘の方をじっと見た。話したかった事はたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。次に言葉を発したのは、鬼太郎の方だった。

「どうして付いてきたんだい」
「だって……鬼太郎が何も教えてくれないから」
「相手が犬神憑きだったこともあるし、女性の部屋に上がり込んでいるなんて言えないよ」
「それは、そうだけど……」
「これ、返すよ」

 鬼太郎は受け取った礼金を猫娘に全て渡す。金額は今まで猫娘から借りたのとほぼ同額で、儲けはなかった。

「心配かけてごめんよ」
「ううん。もういいの」
「……ありがとう」
「鬼太郎のこと、好きよ。でも、今はもっと好き」
「猫ちゃん」
「信じてよかった」

 すがりついてきた猫娘を、鬼太郎はギュッと抱きしめる。胸元に顔をうずめる彼女のぬくもりが心地良い。彼女が傍にいてくれて良かったと、心からそう思った。

「帰ろう。僕らの家に」
「うん」

 街灯の先、夜の帳の向こう側。
 腕を組み、寄り添う影が消えていく。
 大都会の片隅の、その後の二人の物語。
 
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