サクラの記憶

 桜。
 バラ科のサクラ属のうちの一群であり、おおむね落葉高木。
 春になると淡紅、白などの美しい花を咲かせ、日本の国花とされている。花見という風習に代表されるほど桜が人々に親しまれているのも、わずかな期間に一斉に咲き誇る壮麗さと、やがては全て舞い散ってしまう儚さが人々の心を捉えるからなのか。
 それだけに、桜にまつわる出来事は特別なものとして残ることが多い。鮮やかに咲き誇り、そして舞い散る桜にはどんな記憶が隠されているのだろう。




 ザ・チルドレンを始めとするバベルのエスパーチーム達は『互いの親睦を深め連携を強化する』という名目で、合同で花見をすることになった。とはいえ、その実体はどんちゃん騒ぎ以外の何物でもないわけであるが。
 空は快晴、花は満開。日差しは温かく、穏やかな風。まさに最高の花見日和だった。

「奥義、サイキック北斗○拳っ!!」

 明石薫が指先でビールの瓶を突いて『お前はもう、開いている』と呟くと、間を置いてビール瓶の蓋が勢い良く弾け飛ぶ。

「あべしっ!?」
「オーウ、コレが東洋の神秘デスカー!?」

 それを見て、まだ本国に帰ってなかったりする合衆国エスパーチームのメアリー・フォードやケン・マクガイアがやんややんやと拍手喝采。その脇で、すっかり酒の回った桐壺局長やエスパー医師の賢木が自分達の扱いについて愚痴をこぼしつつ、涙ながらに酒を酌み交わしている。

「あーもう、どうして私の所にはいい男がこないのよー。ねー、聞いてんのほたるー」
「だったら、まず酒癖の悪さをどーにかしなさいよ」

 ザ・ダブルフェイスの常盤奈津子はすっかり目が据わっており、アルコール臭い息を吐きながらパートナーの野分ほたるに絡み酒。

「おおっと、酔いが回ってしまったぞう。ナオミ、そのヒザで介抱してく――」
「どさくさに紛れてなに触ろうとしてんのよ!」
「ぐはぁ!?」
「そこでぶら下がってろ、セクハラオヤジ!」
「はーん!」

 酔ったフリをしてナオミにもたれかかろうとした谷崎主任は、サイコキネシスで桜の木に逆さ貼り付けの刑になり、失笑を買う。

「おかわりまだー!?」
「初音、お前には風情とか景色を楽しむとかそーゆー」
「ねー明、はやくゴーハーンー」
「……もういいです」

 ザ・ハウンドの犬神初音は桜そっちのけで、宿木明が作る料理をひたすら胃袋に納めていく。明も観念して開き直り、後に『バベルの味っ○』とあだ名されるほどの見事な料理の腕前を披露していた。
 桐壺局長の秘書、柏木朧は平然とお酒を飲みつつ、時折熱暴走する局長と賢木に冷静なツッコミを入れては常に牽制するという高度な技を見せていた。

 ザ・チルドレン現場運用主任の皆本光一は、酔っぱらって絡んでくる同僚や、薫のオッサン丸出しの暴走を抑えるのでヘトヘトになっていた。中間管理職の悲哀ここに極まれり、である。
 唯一救われることと言えば、紫穂と葵の二人が比較的大人しくしていてくれたことだろうか。ともあれその光景は、参加メンバーの半数以上がエスパーであることを除けば、ここ日本ではごくありふれた光景に違いなかった。
 やがてお約束のカラオケが始まると、皆の関心はそこに集まり、我先にとマイクを奪いあっては熱唱を始める。
 皆本はようやく面倒から解放され、クーラーボックスから冷えたウーロン茶を取り出し、それを飲みながら一息ついていた。ふと視線を桜並木の方に向けると、花見の集団から一人離れるようにたたずむ人物が目に入る。
 ひとり桜の木を見上げているのはコメリカの老エスパー、グリシャム大佐だった。彼は騒ぎに加わることもなく、ただじっと桜を見上げている。彼の顔に幾重にも刻まれたしわが、あたかも年輪の如くその人生の深さを物語る。それがどんなものであったのか、自分のような若造が推し量れる物でないことを皆本は知っている。
 ただ、その桜を見上げる表情は花に見とれているのではなく、どこか遠い記憶に思いを馳せているようであった。騒がしさに気疲れしてしまったのかと思い、皆本はグリシャムの元に近づいて声をかけた。

「……ミナモトか。花見というのは賑やかなものだな。面白い文化だ」
「騒がしくて申し訳ありません。ところでさっきから桜をじっと見上げてましたけど、何か思い出が?」
「昔のことを少しな。君はこの花を見て、どんなことを思い出す?」
「そうですね……卒業式や、入社式。人生の分岐点となった時のことでしょうか。桜は新たな出発の象徴でもありますし」
「日本人にとって、やはりサクラは特別なのだな。だからこそ彼は」
「彼?」
「戦時中、一瞬すれ違っただけの名も知らぬ男のことだ。ほんの僅かな出来事に過ぎないことだったが、今でも脳裏に焼き付いて消えない。サクラを見るたびに、そのことを思い出すのだよ」
「何があったんです?」
「終戦の数ヶ月前……墜落で負った傷が癒え、日本を脱出する直前のことだった――」




 戦争中、搭乗していた飛行機が墜落し重傷を負ったグリシャムを救ったのは、敵であるはずの日本人――それも、まだ年端もいかぬ少女だった。彼女は言葉も通じぬ自分に献身的に尽くしてくれたうえ、自身すら満足に口に出来ぬ食料をも分け与えてくれた。
 その際、頭部に負った傷が原因で彼は超能力に目覚める。最初に発現した能力はテレパシーであった。初めは驚きこそしたものの、この能力は少女との交流に大いに役に立った。
 顔に大きな傷跡が残ったが、グリシャムは看護の甲斐あって完全に回復した。

「もう、行っちゃうの?」
『私がこれ以上ここに留まっていては、君が危険だ。この恩は忘れない。いつかまた必ず会いに来る……約束だ』
「うん、約束!」

 差し出された少女の小指に自分の小指を同じように絡めると、微笑みながらグリシャムは口を開いた。

「あ……ありが……とう」

 療養中に憶えたつたない日本語で、グリシャムは礼を述べた。これだけはテレパシーでなく、自分の口から伝えたかった。
 別れを惜しむようにじっと見送る少女を背に、彼はひとり歩き出した。
 グリシャムは髪を墨汁で染めたうえで帽子をかぶり、コートを羽織り眼鏡をかけて変装し、最寄りの駅の近くに生えていた木の陰で列車が到着するのを待っていた。というのも、日本の通貨など持ち合わせているはずもなく、キセル乗車をするつもりだったからだ。だが、敵地の真ん中でじっとしているというのは精神的に耐え難く、常に不安がつきまとう。
 落ち着き無く視線を泳がせていると、あるものが目に入る。それは線路に沿うように植えられていた桜並木であり、自分が背を預けている樹木そのものだった。
 並び立つ桜は薄桃色の花をいっぱいに咲かせ、戦争や敵地にいることを一瞬忘れさせる程に美しかった。目の前にある存在さえ見失ってしまう恐怖に満たされていた心が、少しずつ和らいでいくような気がしていた。
 やがて遠くから汽笛の音が聞こえてくる。視線を線路の彼方に動かすと、現代ではもはや博物館でしか見ることの出来ない蒸気機関車が煙をもうもうと上げながら近づいてきた。
 やがて汽車は駅に止まり、多くの人間を吐き出し、そして再び多くの人間を飲み込んでいく。
 ごった返す人混みに混ざろうとグリシャムが一歩踏み出した時、いつの間にか目の前に一人の男が立っており、その風貌を見た瞬間、グリシャムの心臓は凍り付いた。それは紛れもない日本兵で、無精ヒゲを生やし、憔悴し疲れ切った顔をした三十代くらいの男だった。
 日本兵はじっとこちらを凝視し、その場から動こうとしない。その目はまるで、信じられないものを見たように見開かれていた。

(バレたのか――!?)

 全身の毛穴が広がり、冷たい汗がどっと噴き出す。耳で聞こえるほど心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされ、手足が震える。もしここで捕まり正体が晒されたなら、八つ裂きどころでは済まないだろう。だが、グリシャムにはどうすることも出来ない。逃げ出すことも、話しかけてこの場をやり過ごすことも出来ないのだ。もうダメかと目をつぶり、神の名を心で呟いた瞬間だった。

「……で」
(――?)
「なんで……」
(独り言?)

 日本兵はガクガクと全身を震わせ、血走った目をしながらうわごとのように何かを呟いている。よく観察してみれば、彼の目に映っているのはグリシャムではなく桜の木。そして突然、彼は凄まじい絶叫を上げた。

「みんな死んじまったのに……なんで桜が咲いてやがる! なんで桜が咲いてやがるんだ!」

 日本兵は狂ったように叫び、グリシャムのことなど目に入らぬかのように両拳を桜の木に叩きつけた。何度も何度も――手の皮が破れて血にまみれても、それをやめようとしない。押し寄せる感情のうねり。嗚咽。涙。鼻水。涎。それらを拭うこともせず、全てを溢れるままに叫び続ける日本兵の顔は壮絶なものだった。
 彼に何があったのか。異常な光景を目の当たりにしたグリシャムがそう思った瞬間、彼の心に何かが流れ込んできた。見たこともない場所や、知らぬはずの異国の言葉。なのに、それが何なのか全て理解できてしまう。それを見て、聞いている誰かはグリシャムではない事だけは確かだった。

(これは……彼の記憶? 精神を乱したあの男が、念波を放射しているのか――?)

 グリシャムの心に流れ込んできた日本兵の記憶は、筆舌に尽くしがたい壮絶なものだった。
 地獄という表現すら生ぬるい――絶望と恐怖、血と死肉、泥と涙をないまぜにし、それを暗黒のカンバスにぶちまけた――世界の終末のように思えた。
 故郷を遙か離れた土地で進むことも引くことも出来ず、玉砕という名の犬死にを強制された兵士達。
 一足先に蜂の巣となった上官に続き、仲間達もまた絶望に狂い、次々に飛び出しては赤い花となって散っていく。この日本兵もまた、わけもわからぬまま同じように飛び出し、そこでぷつりと意識が途絶えた。
 なのに、どういうわけか自分だけは生き延び、本国の土を踏み、気付けば故郷の桜を見上げている。一斉に開いていた桜の花を目にした時、彼の心で何かが弾け飛び散ったのだ。
 やがて通りすがりの人が彼の異常に気が付き、両脇を抱えられて日本兵は運ばれていった。
 グリシャムの姿はすでにその場にはなく、汽車は蒸気機関特有の音を立てながら遠くへと走り去っていく。薄暗い貨物室の中では、山と積まれた荷物が揺れている。その脇で膝を抱えて座り込む異国人の目元は、涙の筋がいつまでも消えなかった。




「――脳に直接届くイメージというものは、どんな映像や言葉よりも深く心に跡を残す。この経験から、私は相手にテレパシーで話を聞かせる事の有効性を知ったのだよ」
「そんなことがあったんですか……」
「あの日本兵の慟哭を私は忘れられん。いや、忘れてはいけないのだ。人々が憎み合い、傷ついた歴史を。だが、人間は過去の傷に泣くために生きているのではない――」

 グリシャムの視線の先には、はしゃぐ薫たちや、それを取り巻く仲間達の桜にも負けぬ素晴らしい笑顔が広がっている。目を細めながら満足そうに微笑むと、彼は途切れた言葉を紡いだ。

「異国の、それも敵である私を救ってくれた人がいたように……人は手を取り合える。未来を見つめ、自らの力で切り開き、こうして笑いあうことができる。そのために人間は生きているんだ。そう思わないかね――?」
「そうですね。僕も、そう思います」
「どんな理由や正義を掲げようと、人間同士が殺し合うなど最も愚かで野蛮なことだ。エスパーとノーマルの衝突を望む者が暗躍していると聞いたが……子供達と君の望む未来が必ず勝利すると、私は信じているよ」
「ありがとうございます、グリシャム大佐」

 桜の下で穏やかに笑うグリシャムと皆本を、紫穂と葵が呼びに来る。
 カラオケの順番が回ってきたというので、グリシャムはマイクを手に取り、咳払いをひとつ。

「こんな歌を知っているかね!?」
「――はっ!?」
「バベルの諸君。君たちが努力し、築き上げてきたものがいつか人々に受け入れられ――この満開のサクラの様に花開く日がきっと来るだろう。未来を担う君たちに、私はエールを送りたい。そんな気持ちを込めて歌います――」
「ま、まずい、みんな逃げ――!」

 満開の桜の下、テレパシーでこぶしを利かせた歌声に、花見の席は涙で溢れかえってしまったという。
 だが、今日この日の出来事もまた、特別な記憶として胸に残り続けるだろう。
 涙でぐしゃぐしゃになった笑顔と、咲き誇る桜の花と共に――