蜂と英雄
第1話
魔神アシュタロスが滅んだことにより、現世界転覆の危機は去った。
神族も人間の関係者たちも一様に胸をなで下ろし、戦いによって傷ついた街や施設の復興に力を注いでいた。
だが屈指の実力者であった魔神が消えた影響は、特に魔界で大きな異変をもたらしていた。
空いた魔神の座を狙い活動を開始する者。
支配者が消えたことで抑圧から解放され暴れ出す魔獣。
激しい天変地異と魔力の逆流。
各地で起こる数々の問題を鎮圧するため、魔界正規軍はかつて無い慌ただしさに追われていた。
魔界の政治・経済・軍事の全てを司る首都『パンデモニウム』
厳格かつ荘厳なサタンの居城を中心に近代的な都市が広がり、そこに住まう魔族達は彼らなりの繁栄と平和を謳歌している。
ワルキューレやジーク、ベスパらが所属する魔界正規軍の本部もこの巨大な都市に設置され、魔界の情勢を常に監視していた。
ある日、軍の観測所で異常なエネルギーが観測される。
何らかの魔力であると確認されたが、分析により自然発生する類のものではないとの結論が出された。
場所はかつてのアシュタロス支配区域。
支配者がいなくなった土地は荒れ、凶暴な魔獣や武闘派の魔族が数多く潜伏し暴れているため、この異常は見逃すことのできないものだった。
正規軍は即座に偵察部隊を派遣し、異常なエネルギーの正体を確認することにした。もし魔界の安定に悪影響を及ぼす存在であるなら、それは排除しなければならない。
ところが偵察部隊は、目的地に到達した直後の連絡を最後に消息を絶つ。事態を重く見た軍は屈強な戦士で構成された捜索隊を編成し、調査に向かわせた。
しかし、捜索隊もまた同じように消息を絶ってしまうのだった。
正規軍会議において、この事件は早急に解決しなければならない議題として挙がっていた。
結論としてこの問題は放置できず、何としても事実を調査する必要がある。
だが、新たに調査へ向かおうと名乗りを上げる者が誰もいなかった。
再び調査に失敗し、自分の面子と部下を失いたくないからだ。
名だたる魔族の実力者・幹部の中に混じって、アシュタロス事件の功績を認められた青年情報士官・ジークフリートの姿があった。
「貴様らはそれでも恐れを知らぬ魔族の軍人かッ! 誰かこの問題を解決しようと言う気概のある者はおらんのか?」
まったく進まぬ会議に業を煮やした正規軍最高司令官『アモン』は、大きく開かれた口から灼熱の炎をまき散らしながら叫んでいた。
アモンとはフクロウ、または狼の姿を持ち、サタンに匹敵する実力を持つという魔界の大公である。
他にも数多くの姿を持ち、今は青い炎のような髪に屈強な肉体を持つ壮年の人間の姿をしている。
されど鋭い瞳に宿す強大な殺気と魔力は変わらず、幹部達の額に脂汗をかかせるには充分すぎるほどであった。
それでも誰も名乗りを上げぬため、アモンの怒りは限界に達しようとしていた。
そこへ、沈黙を続け傍聴に徹していたジークが名乗りを上げた。
「恐れながら。その役目、私に任せてはもらえないでしょうか」
「おお、やってくれるか」
ジークに会場の視線が集まり、どよめきの中で次の言葉が待たれた。
「今回の事件、どうもただならぬ気配を感じます。私は情報士官として、直に現場の状況を確認し分析したいのです」
「うむ、よく言ってくれた。何か必要な装備や人員があれば回しておこう」
「ありがとうございます。それではさっそく準備に取りかかりますので」
「よい結果を期待しているぞ」
ジークは一礼し、会議室を後にする。
他の幹部達の脇を通った時「青二才が空回りにならねばいいがな」と嘲笑されたが、これも魔族の習いとジークは一瞥し、微笑み返すだけだった。
ジークが任務のために要請した人員は、ベスパただ一人。
前例から見て、数は役に立たないだろうと判断したからである。
もし自分が失敗したとしても、彼女さえ逃がせば被害は最小限で済むという計算も含めて。
「で、今度の任務は何なのジーク?」
「まずはこのファイルに目を通してくれ。話はそれからだ」
ブリーフィングルームの壁にもたれかかっているベスパは、不遜な態度でジークから手渡されたファイルをめくっていく。
「――謎のエネルギーの調査と、行方不明になった部隊の捜索、か。あんまりパッとしない仕事だね。護衛なんて私じゃなくてもいいんじゃない?」
「この事件にアシュタロスが絡んでいるかも知れない、と言ったら?」
「……!?」
「過去のデータを調べたところ、五百年前にも今回と同じ場所で同じエネルギー反応が確認されている。その時はアシュタロスが現場付近に訪れており、エネルギー確認の直前に近隣の村が原因不明の壊滅を遂げたそうだ。そして、アシュタロスの死後に再び起こったエネルギー反応と、部隊の失踪。お前はただの偶然だと思うか? それに、この任務を成功させれば――」
「させれば……何?」
「いや、何でもない。お前の実力なら、大抵の魔物に襲われても大丈夫そうだからな」
「どーゆー意味よ」
「ともかく、今回は正体がまったく掴めない事態だ。十分気を引き締めてくれ」
「了解」
ジークとベスパが同じ任務に就くのは、一度や二度の事ではない。
ベスパは戦士としては非常に優秀で、高い身体能力と魔力、これからもさらに成長する資質がある。
しかし元アシュタロスの部下という境遇と激しい気性から、彼女は上官や同僚と衝突することが日常茶飯事であり、軍内部では煙たがられる存在であった。
そこで彼女の身の上を理解しているジークが根気よくベスパと接し続けた結果、彼女との間に信頼関係を築く事に成功したのである。
ゆえに舵取り役としてジークはベスパに同行することが多くなり、今では度々顔を合わせる間柄となったわけだ。
(今回の任務を成功させれば、ベスパを快く思わない魔族達を納得させられる。彼女が軍で窮屈に感じることも少なくなるはずだ)
彼が思いを巡らせていると、ふいに誰かが部屋のドアを開けた。
ジークの姉にして麗しき女戦士、ワルキューレである。
「聞いたぞジーク。謎のエネルギーの調査に向かうそうだな」
「ええ、何か気になるんですよ、この事件」
「できるなら私も同行したかったがな。他方面で展開している魔獣の鎮圧作戦に参加しなければならん」
「大丈夫ですよ姉上。危なくなったらすぐに撤退します。それに、ベスパもいますから」
「……それが一番不安なのだが」
「は?」
「ゴ、ゴホン。と、とにかく気をつけるんだぞ」
「姉上も」
互いに敬礼を交わし、姉弟は互いの武運を祈る。ジークがベスパと共に部屋を出て行こうとすると、思い出したようにワルキューレが弟を呼び止め、ネックレスを手渡した。
「これを持って行け。私がかつて賜った宝具だが、きっとお前を守ってくれるだろう」
散りばめられた宝石は、清浄な水の色をたたえたアクアマリン。
ジークはそれを首に掛け、不思議な輝きを放つアクアマリンを手にとって眺める。
それだけで心が落ち着く、美しいネックレスだった。
「ありがとう姉上。大切にします」
「それからベスパ」
ワルキューレはベスパを手招きし、近付いてきた彼女の首を抱え、ヒソヒソと小声で言う
「二人っきりだからって、弟に妙な気を起こすんじゃないぞ?」
「あ、あのね」
目が据わったワルキューレに、ベスパは半笑いしか返せない。
「そろそろ行くぞベスパ。任務開始だ」
姉に別れを済ませ、ジークはベスパを伴い飛び立つ。
生ぬるい風が吹き抜ける淀んだ空の向こうへ、二人の姿は消えていった。
エネルギー反応が観測された地点まで残り半分。荒野に突き出た険しい岩山の上で、二人は待っていた。岩の角は鋭利な刃物のように鋭く、歩いて登ってこられるような場所ではない。
周囲には同じような岩山が連なり、ときおり頭上を爆撃機のような巨大な怪鳥が通り過ぎていく。
やがて霧のかかった遠くの空から、羽ばたきながら近付いてくる姿があった。
目の前にふわりと舞い降りたのは、羽毛に覆われた羽と女性の姿を持つ鳥の魔族。
「時間ぴったりじゃん。さすが軍人ってとこ?」
「えっと、誰?」
ベスパは初めて見る相手に眉をひそめている。
「ああ、彼女はハーピー。私が呼んでおいたんだ」
「へぇ、結構いい男じゃん。軍人て言うから厳ついオッサンとか予想してたけど」
「え? あ、いや、ははは」
ハーピーはジークの周りをうろつきながら、顔を近づけて品定めする。
「……で、なんでこんな鳥女を呼んだの?」
ハーピーとの間にずいっと体を割り込ませ、ベスパはジトッとジークを睨む。
チクチクする視線に、ジークは思わず苦笑する。
「現場周辺のガイドとして雇っておいたんだ。だからそんな目で見ないでくれ」
「ガイド?」
「情報は多いほどいい。いざというときに役立つ」
「アンタ達が向かうあたりは庭みたいなもんじゃん。まかせなって」
「ヤバイ仕事だってのは聞いてるんだろ? 物好きだね……まあいいわ。さっさと目的地に行こう」
「それじゃあ、案内を頼むよハーピーさん」
「呼び捨てでいいって。さん付けなんて背中がかゆくなるじゃん」
岩山地帯の上を通り越し、遙か眼下に深い森林地帯が広がる場所に出た。魔界の森は奇妙な植物がでたらめな方向に伸び、中には歩き回る樹木さえ存在する。ギャアギャアと不快なわめき声をあげる鳥が飛び交い、異形の生物たちが暮らす森。
人間からすれば地獄のような光景でも、魔界には魔界なりの生態系が根付いている。
それを守るのも、自分の役目であるとジークは思う。
広大な森林地帯を飛ぶこと数時間、やがて遠くに水平線が見え始め、海が近いことを物語っていた。
その森林地帯の一角に大きな湖と、岩山が隆起している場所がある。
異常なエネルギー反応が観測され、調査に向かった兵士達が消息を絶った場所。
湖や周辺の森には所々霧がかかっており、上空からでは詳しいことを知ることはできないようだ。
周囲に気を配りつつ、ジーク達は湖にほど近い森の中へと降り立つ。
「とりあえず今のところは妙な気配はしないね」
「だが、ここに何かがあるのは間違いない。油断はするな」
周囲の気配に感覚を張り巡らせつつ、足を進めていく。
しばらくは何事もなく、三人は静寂に満ちた森の中を黙々と歩いていた。
「懐かしいね……五百年前と何も変わっちゃいない」
ふいに、ハーピーが呟いた。そして懐かしむようにあたりを眺め、手近にあった木に触れた。
「懐かしい?」
「ああ、この近くにはあたいの故郷があったのさ。小さな村だったけどね。けど、ある日どこからかやってきたバケモノが村をめちゃくちゃにしていった……その時バケモノを追っ払って、あたいを助けてくれたのがアシュタロス様だったんだ」
「アシュタロスほどの魔神が追い払っただけ、か。参考までに聞くが、どんな怪物だった?」
「わからない。あたいはまだガキだったし、すごく恐ろしかったとしか」
「そうか……すまない」
「もし今回の事件にそいつが絡んでるなら、仲間の仇の一発をお見舞いしてやるじゃん」
自慢の羽を握り締めるハーピーに、ベスパが笑いかける。
「その野郎が出てきたら、ちゃんとハーピーの分は残しといてやるよ」
「フッ、ありがたいじゃん」
軽口を言い合う二人の前で、ジークが急にかがみ込む。
足元を手で探り、険しい表情で森の奥を見つめている。
「どうしたのジーク?」
「正規軍のブーツの跡だ。それも複数。奥に続いているぞ」
「近付いてきたって事だね」
「ハーピー、君は軍の所属じゃない。危険を感じたらすぐにこの場を離れろ。いいな?」
「ハナからそのつもりじゃん」
さらに警戒を強めつつ、ジーク達は足跡の続く奥へと進む。
やがてわずかに森が開けた場所に出た時、無数の黒い影がブワッと宙に舞って空を覆い尽くす。
「スカベリンジャーの群れだ……!」
スカベリンジャーは死肉を漁る魔界の鳥。連中が集まるそこに何があるのかは、習性を知っていれば容易に想像できるであろう。ジークらの眼前に広がっていたのは、筆舌に尽くしがたい凄惨な光景だった。
無惨に引き裂かれた死体が、地面を埋め尽くすほど転がっている。
その新しさ、服装から正規軍の兵士達であることは間違いない。
周囲に飛び散ったおびただしい血と肉片。
目に見える範囲の樹木は全て枯れ果て、さながらここは地獄そのもの。
あたりにはひどい腐敗臭が立ちこめ、スカベリンジャー達が獲物を横取りされまいと、頭上でギャアギャア騒ぎながら飛び回っている。
ある遺体は頭蓋が半分しかなく、隣の遺体は臓物をえぐり取られ――五体満足な死体は極めて少ない。
異様だったのは、全身がドロドロに溶解し、白骨さえ崩れかかった死体がいくつかあることだった。
立ったまま溶けた死体もあったが、構える拳銃もボロボロに腐り果て、崩れた銃口は無言のまま虚空を向いていた。
「な、なんなのコレは!? 仮にも正規軍の兵士がこんな……」
あまりの惨状に、ベスパは口を押さえて顔をしかめた。
ハーピーは足元に目をやり、泥でぬかるんだ地面を見比べている。
「足跡が乱れてる……みんなデタラメに走って、というより逃げまどってるじゃん。この見たこともない大きな足跡が犯人らしいじゃん……このドロドロの死体は至近距離でそいつを撃って、直後に溶けちゃったのか」
「ほう、大した分析眼じゃないか。どこかで訓練を?」
「初歩よ初歩。あたいはこれでもスナイパーの端くれじゃん?」
「それは頼もしいな。じゃあこの周りを一通り調べてくれないか?」
「あいあいさー」
ハーピーには周辺の調査を、ベスパには警戒に当たってもらい、ジークは外見に損傷の少ない死体の分析をすることにした。
うつ伏せに倒れている死体を仰向けにし、紫の血を吐いて事切れた兵士の死因を探る。
(脊髄の損傷と内臓破裂が確認できる……凄まじい力で握りつぶされたようだな)
視線を動かすと、ボディアーマーの一部が腐食し、グズグズに崩れている。
その部分を木の枝で突いてみると、ねっとりとしたどす黒い液体がこびり付く。
(強力な腐食性の毒だ。体液にも似ているが……これほど強力な魔獣が、誰にも知られず潜んでいたのか?)
ジークは見開いたままの兵士の目を伏せてやると、静かに立ち上がってベスパを呼ぶ。あたりを調べ終わったハーピーも空から戻ってきた。
「何か解った?」
「犯人はかなりの怪力で、強力な毒を持っているということくらいだ」
「なんか私とカブるわね、そいつ」
ジークの回答に、ベスパは不愉快そうに首をすくめる。
「ハーピーの方はどうだ?」
「水かきみたいなものが付いた大きな足跡が、湖のほうに向かって移動してるじゃん。四本脚の、どでかいバケモノじゃん。あっちの方角、なんだかイヤな感じがするよ」
不吉な予感に表情を曇らせたハーピーが呟いた、その時だった。
ふいに暗雲が空に立ちこめ、ただでさえ薄暗い森の中が深い闇に包まれていく。
背筋が凍るような風が吹き抜けたかと思うと、うめき声のような音がどこからともなく響いてきた。
やがて森の奥の暗闇にひとつ、またひとつと青白い炎が灯り始め、三人を取り囲んでいく。
「鬼火か。ちっ、こんな時に面倒な……」
青白い炎が死体の中へ飛び込んだ直後、動かぬはずの肉体がびくん、と震え、ゆらゆらと立ち上がる。
リビングデッド――黄泉帰りを果たした歩く死者達は、その理に従い生者の方へと近付いてゆく。
自らが失った温もりと、生ける魂をむさぼり食わんがために。
突進してきたゾンビをベスパが霊波砲で撃ち抜いたのを皮切りに、周囲の死者達が一斉に襲いかかってきた。
ハーピーは自らの武器、フェザー・ブレットで敵の頭を確実に撃ち抜き、時には二体まとめて始末する。
ジークは汚れた爪の一撃をわずかな動きでかわし、後頭部を霊力のこもった掌で打ち据えることで、死体に取り憑いた怨霊を最小限の力で消滅させる。
ベスパはその美しい髪をなびかせながら、力強く豪快に敵をなぎ倒していく。
いくら数が多かろうが、動きの鈍いゾンビなど彼らの敵ではない。
ジークが目の前の一体に止めを刺したとき、ふいに乾いた音が響き渡った。
頬を何かがかすめ、一直線に裂けて血が流れ出す。
反射的に転身し音の出所に目を向けると、ゾンビが拳銃を握り締め、その銃口をこちらに向けていた。
周囲のゾンビも触発されたかのように拳銃を取り出し、銃口をこちらに向けてトリガーに指を掛けている。
(武器を使う? 奴ら、何かの意志に操られているのか――)
鈍重なゾンビの攻撃にやられるとは思わないが、武器を使うとなると話は別だ。
万一精霊石の銃弾を浴びてしまえば、ただでは済まない。任務の遂行にも大きな影響が出てしまう。
「ベスパ、ハーピー! 連中を相手にしている暇はなくなった。一気に突破するぞ」
「オッケーじゃん」
「私が先に行くわ。遅れないでよ二人とも!」
ベスパの霊波砲が、数体のゾンビを吹き飛ばして包囲に穴を開ける。
すかさず死体の間を駆け抜けた三人は、湖方面へ向けて駆け抜けていった。
湖面には重く濃い霧が立ちこめ、五十メートル先すら望むことはできない。
あたりは不気味なほどに静まりかえり、小さな波音だけが同じ間隔を刻み続けている。
水は薄暗く淀んで悪臭を放ち、生き物が住んでいる気配がまったく感じられない。
そこはまさに、死の湖と形容するにふさわしい。
ジーク達の立っている湖畔には、巨大な何かが湖に入っていった跡が残っていた。
「この湖に何かがあるのは間違いないな」
「けど、この霧じゃあうかつに飛び回るのも得策とは思えないね。どうする?」
「とりあえず湖畔を歩いてみよう。何か手がかりが見つかるはずだ」
ジークとベスパが相談していると、ハーピーが大きな声で呼んだ。
「どうした?」
「あれ!」
彼女が指す方向に目をやると、湖にかかっていた霧が晴れてゆき、湖の中央に小さな島が現れた。
得体の知れない邪気が島の周囲に立ちこめ、漂っているのを感じる。
湖畔にいながら、チリチリと肌を焼くほどに強い邪気を。
「ジーク、あれって」
「ああ、一連の事件に関わる何かが……あそこにあるんだ」
ジークもベスパも、ただ立っているだけでじっとりと体が汗ばんでくるような圧力を感じていた。ただならぬ気配に、ジークはハーピーにこれ以上は危険だから帰るように促す。
だが、彼女は首を縦には振らなかった。
「あそこに仲間の仇がいるかも知れないじゃん? あたいもついてくよ」
「遊びじゃないんだぞ? 敵の正体が掴めていないし、命の保証もできない」
「やばくなったら逃げるってば。逃げ足は速いんだから安心しなって」
「……無理だけはしないでくれよ」
「オッケーじゃん」
湖面に浮かび上がる小島に降り立つと、荒れ果てた島の中心に墓石がひとつだけ置かれていた。
文字は風化して読み取れず、何のためにここにあるのか、そして誰の墓なのか知る事はできなかった。
(さっきから何かがおかしい。あのゾンビ達といい、霧が晴れたことといい、まるで何者かが我々を誘っているような……)
ジークは小島の様子を観察しながら考える。島には墓石以外に変わった物は見あたらず、さっきまで立ちこめていた気配もぷつりと消えた。
「……」
一方、墓石に近付いたベスパは、何かがつま先に当たるのを感じて、足元に視線を落とす。
雑草に埋もれ、奇妙な石があるのを見つけた
金の五芒星が描かれ、不思議な波動を発する石。
それを感じた時、ベスパの心を懐かしく、そして哀しい衝撃が貫く。
(アシュ様……!?)
愛しさ。懐かしさ。様々な感情が一気に吹き出し渦巻いていたベスパの心に、不思議な声が響いてきた。
(手を……その手を石に……触れるのだ……)
「あ……」
微かに漏れたベスパの声に、考え込んでいたジークは顔を上げて振り返る。
墓石の前でしゃがみ込む彼女の顔を覗きに行って、異変に気が付いた。
眼の光は淀み、焦点が定まっていない。
何かに取り憑かれている――そう思った時には、ベスパは足元の石に手を伸ばしていた。
「よせ、その石に触れるなッ!」
ジークは腕を払って止めようとしたが、ベスパの手にはすでに石が握り込まれていた。
「しまった……!」
石に刻まれた金の五芒星は激しく輝き、その光が墓石を貫く。石は音もなく崩れて砂となり、代わって墓石が血のように赤く輝き始めた。
刹那、島全体――いや、大気が激しく震えだす。
地震と共に墓石に亀裂が走り、粉々に砕け散る。
その跡から立ちこめた赤い煙が、天高く舞い上がって渦を巻き、ひとつに集まり始めた。
やがて煙は形を成し、人間のミイラに似た姿へと変貌していく。
骨に茶褐色の皮膚が貼り付いただけのようなそれは、ジークとベスパを見下ろしながら宙に浮かんでいた。
「う……あ、あれ?」
「正気に戻ったか」
「一体何が……私、どうしてた?」
宙に浮くミイラは、言葉ではなく心に語りかけてきた。
冷たく、乾ききった声だった。
『礼を言うぞ小娘。貴様のおかげで忌々しい封印は完全に解かれた』
「誰だよあんたは……封印? 何のこと?」
ベスパの前に立ち素早く拳銃を構え、冷静にジークは訊く。
「我々がいいと言うまでそこを動くな。従わない場合は精霊石の銃弾をプレゼントだ」
銃口を向けられながら、ミイラは取り乱した様子もなく首を動かしてジークを見る。
「最初の質問だ。貴様の名は」
『ワシか。心して聞くがよい。ワシはな――』
ミイラは両手を大きく広げて虚空を仰いだ。
ジークもベスパも、ごくりと唾を飲んで次の言葉を待つ。
『――誰じゃったっけ?』
ジークとベスパは盛大にコケた。
「ふ、ふざけるなああああああッ!」
カチンと来たベスパが、ミイラに向けてフルパワーの一撃を放つ。
だが、その霊波砲はミイラの前で不自然に軌道をねじ曲げ、あさっての方向に飛んで行ってしまった。
「なっ!?」
『ファファファ。そうそう、思い出したわ。ワシの名はルシエンテス……不死の術法と魔術を極めし魔導師よ』
「謎のエネルギー反応と、正規軍を壊滅させたのは貴様の仕業か」
『さよう』
「目的は何だ? なぜこんな場所に封印されていた? 答えろ!」
『せっかちな奴じゃな。質問はひとつずつと教わらんかったのか? まあよい……ワシはな、五百年ほど前にアシュタロスによってここに封じられたのよ』
「なに……!?」
『アシュタロスは昔から屈指の科学者として有名でな。ワシは奴の研究に興味が湧き、協力を持ちかけた。ところがワシの手土産が気にいらんとかで、この有り様じゃ』
「……もしや偵察部隊を襲った怪物のことか」
『アシュタロスが死んで封印が消えたまではよかったが、奴は念入りなことに二重に封を掛けておったのだ。奴自身の魔力でなければ解除できんもう一つの封印をな。だが、幸運なことにアシュタロスの魔力は形を変えてまだこの世に残っておった……そう、その小娘がそれよ。ワシは体の自由は効かなんだが、念は封印の隙間を通り抜けられたのでな。ちょいとここまでご足労願ったというわけよ……ククク!』
「わ、私が封印を解いちまったのか……」
ベスパは絶句した。
あろうことか、自分がアシュタロスほどの者が封印した相手を解放することに荷担してしまうなんて。
望んでやったのではないにせよ、その事実は変わらない。
彼女は自分が取り返しの付かないことをしてしまったのではないかと感じ始めていた。
「お前の行為は魔界の秩序を著しく乱すものだ。大人しく私と本部まで同行すれば良し、さもなくば実力で排除する!」
ジークは怒りに満ちた目でミイラ――ルシエンテスを睨みつける。
仲間を無惨に虐殺したことは、到底許せるはずがない。
『ファファファ! これは面白いことをぬかす。魔界の秩序だと? 常に争い、血を流し、憎み続けるのが貴様ら魔族の仕事であろうが』
ルシエンテスはさもバカらしいといった声で嘲笑し、侮蔑の目をジークに向ける。
「今は魔族も他の種族と共存の道を探さねばならない時代なんだ。お前のような奴に理解してもらおうとは思わん!」
『やれやれ、せっかく目覚めたばかりだというのに、お前のような小僧と遊んでおる暇など無いわ。ワシのしもべと遊んで、せいぜいエサとなれ』
ルシエンテスの干からびた身体は赤い煙となり、上空へと舞い上がっていく。
「逃がすか!」
ジークがその後を追おうとした時、割れるような悲鳴が聞こえてきた。
思わず振り返ると、島の反対側にいたハーピーが真っ青な顔をして逃げてきた。
「どうした!? ひどく震えているぞ」
「あっ、ああ……アイツだ……あたいの故郷をめちゃくちゃにした……アイツが来たんだよ!」
「くそ、こっちの相手が先か」
ルシエンテスを追えない悔しさに歯ぎしりしながらも、ジークはまるで怯える子供のようなハーピーを下がらせ、ベスパと共に身構える。
やがて島の反対側の方から、水音を立てて何かが上陸してきた。
それは、魔界に住むジーク達でさえ思わず言葉を失うくらいにおぞましい姿をしていた。
上半身は人間、下半身は馬のような形で、四本の足には水かきが付いている。
巨大で毛が生えていない頭には、炎のように赤い眼が片方だけ見開かれ、首に当たる部分はなく、直接胴に頭が乗っかってぐるぐると回転している。
さらに不気味なのは、怪物には皮膚が無いことだった。
むき出しの赤い筋肉と、太い腱が伸び縮みし、黄色い血管の中をタールのような黒い血液が脈打ちながら流れ、心臓の鼓動が不気味に鳴り響く。
「な、なんなのこれ……気持ち悪いにも程ってモンがあるだろ」
口を押さえて驚愕するベスパの横で、ジークは全身にびっしょりと汗をかいて怪物を凝視していた。
「や、奴め……なんという奴を連れているんだ」
「知ってるの?」
「ナックラヴィー……数多く存在する魔獣の中でも、最も凶暴で最低の魔物だ」
「さ、最低って」
「目に映る生物を皆殺しにし、周囲に猛毒と障気をまき散らす……何一つ救いようがない相手だ。おそらくこいつも、アシュタロスに封じられていたに違いない」
ベスパの首筋を、冷たい汗が流れ落ちる。
「フシュルル……シュルル……!」
ぐるぐると回っていた頭がジーク達の方を向いてピタリと止まる。
そして、耳元まで裂けた口には黄色く汚れた巨大な歯が並び、汚らしいよだれと共にひどい悪臭をまき散らしていた。
世にもおぞましい魔獣ナックラヴィーはボタボタとよだれを垂らし、人間ならば正気を失いかねないような叫び声を上げて突進してきた――