蜂と英雄

モドル | ススム|モクジ

  第2話  


 四本の足を昆虫のように動かし、巨体に似つかぬ速さでナックラヴィーは迫ってきた。
 地面に届くほど長い手の先には醜く歪んだ爪が伸び、獲物を切り裂かんと振り降ろされる。
 ジークとベスパは素早く飛び退いて一撃をかわすが、深くえぐり取られた地面がその威力を物語っていた。
 着地したジークは足元の小石を蹴飛ばし、ナックラヴィーにぶつける。
 ナックラヴィーはびくんと体を震わせ、その頭部を臼のようにぐるりと回してジークの方を見る。

「どうした、この醜いノロマめ。お前の相手はこっちだ」

 ジークは似つかわしくない口調で怪物を罵り、挑発する。
 ナックラヴィーは相当頭に来たのか、むき出しにした歯をがちがちと鳴らし、何度も足踏みをして怒りをあらわにしていた。

「ジーク、一体何を?」

 彼の行動に疑問を感じたベスパが、視線を怪物に向けたまま尋ねる。

「私が奴の注意を引きつけておく。お前はそのスキにハーピーを連れて離脱しろ」
「なに言ってるのよ、あんな奴ぶっ飛ばしちゃえば――」

 不満そうにジークを見たベスパだったが、異形の怪物を睨み続ける彼の表情は真剣そのものであり、ただの思いつきなどではないことはすぐに理解できた。

「説明している時間はない。いいから言う通りにするんだ」
「……わ、わかったよ」

 向きを変え、ジークめがけて突進するナックラヴィーの脇をベスパはすり抜け、座り込んでいるハーピーの元へと向かう。
 ジークはデタラメに振り回される腕をかわすことにのみ集中し、攻撃を仕掛けようとはしない。

「一旦ここから離れるよハーピー。シャンとしな!」

 ジークがナックラヴィーを引きつけている間に、ベスパはハーピーの腕を掴み立たせる。
 ところが、ようやく我に返ったハーピーはベスパの手を振り払い、ナックラヴィーに向かって飛んで行ってしまう。

「あっ、バカ!?」

 ハーピーは引き抜いた羽を握り締め、おぞましい怪物を憎悪に満ちた目で睨みつけていた。
 彼女は思い出したのだ。心の奥底に封じていた忌まわしい記憶を。突然村を襲った怪物は、理性も情け容赦もなく次々に仲間を喰い殺した。村の全てを蹂躙し、視界に動くものが映らなくなるまでそれは止まらなかった。
 幼かったハーピーは気を失い、瓦礫の下に埋もれていたため難を逃れていたが、目を覚ました時には彼女の全てが失われていた。
 家も、友達も、親姉弟も何もかも。
 ハーピーは引き抜いた羽を握り締め、ナックラヴィーの上半身に狙いを定める。

「仲間の恨み……思い知れッ!」

 渾身のフェザー・ブレットが一条の光となり、ナックラヴィーの体を貫いた。
 羽は見事に胴を貫通し、背中から腹の方へ抜けてジークの足元に突き刺さった。
 だが、その直後ジークは怒声を張り上げた。

「何をしているんだ! 今すぐここから逃げろ!」

 ハーピーどころか追いかけてきたベスパでさえも驚きを禁じ得ず、一瞬体がすくんでしまう。

「だ、大丈夫じゃん。キッチリ心臓ブチ抜いたし、これで終わり――」

 ハーピーが得意げに言い終わるよりも早く、ナックラヴィーが凄まじい絶叫を上げた。体に開いた傷口からは真っ黒な血液が勢いよく吹き出し、どす黒い霧となって周囲を包み込んでいく。

「!?」

 ハーピーは敵を仕留めたと油断し、その霧を左腕に浴びてしまう。
 その瞬間ハーピーは苦痛に顔をゆがめ、力なく墜落してしまった。
 急いで傍に降り立ったベスパがハーピーの羽に目をやると、羽毛がボロボロに崩れ腐り始めていた。

「うわあぁ! あ、あたいの羽が……羽が……!?」

 左腕を押さえてうずくまっているハーピーの顔には、じっとりと脂汗が滲んでいる。

「これ……あいつの毒!?」

 ナックラヴィーは痛みに耐えかね、風穴の開いた部分を抑えて激しくのたうち回っている。
 その度に傷口から体液があふれ障気と化し、周囲の植物どころか地面まで腐らせていく。
 おそらくジークは、手を出せばこうなると予想していたに違いない。
 だから一切手出しをせず、逃げるように言ったのだ。

「そうだ、ジーク……ジーク!?」

 ベスパの背筋に冷たいものが走る。
 彼はナックラヴィーの正面にいたはずだ。
 わずかに触れただけでこの威力である毒をまともに浴びれば、即死は免れない。
 森の中で散乱していた溶解死体――あれは毒液を浴びた者のなれの果てであったのだ。

(まさか……)

 イヤな考えを振り払い、ベスパは慌ててジークを探す。
 だが、彼の姿が見あたらない。
 キョロキョロと辺りを見回すと、ナックラヴィーから少し離れた茂みの中に銀色のボディーアーマーの一部が見えた。

「ジーク!」

 駆け寄ってみると、ジークがうつ伏せになって倒れている。
 そして、その背中には黒い飛沫がこびりつき、ボディアーマーをじわじわと浸食していた。

「しっかりして……大丈夫?」

 ベスパの声に気が付いたのか、ジークは震えながらも起きあがろうとする。
 その肩を支えてジークの顔を覗き込むと、ハーピー以上に具合の悪い表情をしている。

「うぐっ……」

 ジークは震える手つきで毒にまみれたボディアーマーを外し、投げ捨てる。

「ぶ、無事かベスパ」
「私は何ともないけど、ハーピーが」
「そうか……」

 ベスパの肩を借り立ち上がるジークであったが、思うように力が入らない。
 全身が焼けるように熱く、視界が何度もフラッシュし上下さえハッキリしない。
 汗が噴き出し、吐き気がする。
 足元が波打つ海のように感じられ、ただ立っていることさえおぼつかない。
 あの瞬間、とっさに身を翻して毒液の直撃は回避したものの、わずかに降り注いだ飛沫がジークの体を確実に蝕んでいた。
 アーマーがなければ、こうして考えることもできなかったかも知れない。
 ジークは非常にまずい状況に追いつめられている事を痛感していた。

「こうなったらあたしも戦うよ。離れてもう二、三発ブチ込んでやれば、いくらなんでも……」

 ベスパは拳を握り締めてそう言うが、ジークは首を横に振った。

「ハーピーを連れて離脱しろと言ったはずだ。早く行け」
「こんな時になに言ってるんだよっ。カッコ付けるのもいい加減に――!」
「今の我々には勝ち目がないと言っているんだ。見ろ」

 ベスパがナックラヴィーに目をやると、その傷口がどんどん盛り上がり、塞がってゆく。
 その恐るべき生命力に、ベスパは思わず息を飲む。

「で、でも、何か弱点くらいあるはずだろ?」
「や、奴の弱点は……うっ」

 それを言おうとして、ジークの意識は危うく途切れそうになる。想像以上に毒の回りが速く、すでにかなりの体力を削り取られている。
 そうこうしているうちに、回復を遂げたナックラヴィーの狂気に血走った独眼が二人の姿を捉えていた。
 地面に伏せたままのハーピーは目に映っていないらしく、自分を傷付けた本人を無視して襲いかかってきた。
 ベスパはジークを抱えて飛ぼうとしたが間に合わず、突進してきた巨体を正面から受け止めた。
 激しい衝撃を受けながらも、彼女は見事に耐えて見せた。
 ベスパはその美しい外見からは想像もできぬほどの怪力を発揮し「気持ち悪すぎるんだよお前!」と、顔を背けながらも一歩ずつ押し戻し始めた。
 ナックラヴィーは初めキョトンとしていたが、自分の行く手を邪魔するベスパにうなり声を上げ腕を振り下ろす。

「がはっ!?」

 胴を横なぎにされ、大きく吹き飛ばされたベスパ。
 彼女は側転の要領でクルリと体勢を立て直し、後方に滑りながら着地する。
 かなりの力で殴られたが、幸いダメージは深くない。
 脇腹を押さえながら顔を上げると、ナックラヴィーはジークをわし掴みにして眼前に持ち上げていた。
 ジークは顔だけをベスパに向け、力を振り絞って声を張り上げた。

「こ、こいつの弱点は淡水だ! 穢れそのものであるナックラヴィーには、澄んだ水が唯一の武器になる! お前はこの事を仲間に……ぐああああああっ!」

 必死に弱点を伝えたジークだったが、凄まじい力で握り潰されようとしていた。
 手足が砕け、破裂した臓物から逆流した大量の血を吐いてジークは絶叫した。

「ジーク!」

 ベスパは考えるよりも速く走り出し、ナックラヴィーの腕に取り付いた。
「こ……の……手を放せ!」

 必死にジークを握り締める指をこじ開けると、その隙間から紫色の体液がしたたり落ちてゆく。
 ナックラヴィーはまとわりつくベスパを振りほどこうと、じたばたと暴れ始める。
 爪で引っ掻こうとしてもベスパは上手く避けるので、イライラしたナックラヴィーは両手を振り上げ、ジークとベスパを投げ飛ばす。
 空中に放り出された二人は放物線を描き、濁った湖面に落ちた。

(アイツは淡水が弱点だって言ってたけど、この湖から出てきたのは一体どういう事? 濁ってるからダメなのか?)

 沈んでいきながら、ベスパはジークの言葉と現状の矛盾に疑問を感じていたが、その答えを知るものは、狂気の魔獣ナックラヴィーだけであった。

 かつてこの場所は、澄んだ淡水をたたえる魔界でも数少ない湖だった。この湖底深くにナックラヴィーを封じることで、復活できないようにするのがアシュタロスの狙いだった。
 だが五百年の間に、怨念と共にナックラヴィーの毒が少しずつ染み出し、湖は完全に穢れてしまった。
 この水はもはや、ナックラヴィーに対しての弱点とはならなくなっていたのである。

 水はまとわりつくように粘り、肌がチリチリと刺激を受けて痛む。
 ベスパが姿勢を整えて周囲を見ると、すぐ傍でジークが口から血を流し、ゆっくりと沈んでいた。

(ジーク!)

 ベスパはジークの体をしっかりと抱え、水面へと浮上していった。
 湖面へと顔を出すと、ナックラヴィーが「ゲフゲフ」と醜い笑いを浮かべ、よだれを垂らし迫って来る。
 ベスパはジークの名を呼び続けるが、ピクリとも動かない。

(全滅……)

 その言葉が、ベスパの脳裏をかすめた。
 傷を付ければ猛毒を撒き散らし、なおかつ驚異的な再生能力を持つ凶敵。
 水の中では思うように動けないし、だからといってジークを置いていくのも絶対に嫌だった。
 そして、ナックラヴィーは打つ手のない得物に止めを刺さんと、水の中へ飛び込んだ。

「ちくしょう!」

 ジークの体を強く抱きしめて願った時、不思議な――しかし清浄なエネルギーをベスパは感じた。
 それは、ジークの首に掛けられていたアクアマリン。
 この宝石はかつて人間の魔導士が旅人のために作ったもので、たとえ泥水でも綺麗な水に変えて喉を潤すことができるという魔法の道具だった。
 無論、ジークもベスパもそんな事実を知る由もないが。
 優しく神秘的な青の光を宿したアクアマリンは、毒に穢された水を澄んだものへと変えていく。

「ギャォォォォッ!?」

 その水がわずかに触れた途端、ナックラヴィーは苦悶の絶叫を上げて暴れ出した。
 両手を振り回し、穢れた水をバシャバシャと巻き上げてナックラヴィーは後退していく。
 そして、すすり泣くような声を出しながら体をゴシゴシとこすり、湖の奥底へと逃げていってしまった。

(な、なんだ? よくわかんないけど、今のうちに)

 取り残されたベスパはしばらく呆然としていたが、傷ついたジークとハーピーを連れてその場から脱出し、どうにか窮地を切り抜けたのだった。




 魔界の病院に運び込まれたジークが意識を取り戻したのは、それから五日も経ってからのことだった。
 ひどい重傷だったうえ、戦いで浴びた毒が霊基構造を蝕み傷の治りを遅らせていた。意識を取り戻したとき、ぼんやりとした視界の中にはワルキューレやベスパ、さらに小竜姫やパピリオの姿まであった。
 しかし、仲間達が回復の喜びに浸るのも束の間、ジークは軍の会議に呼び出された。

「――つまり、観測されたエネルギーはアシュタロスの封印であり、そこには奴が封じた二体の魔物がいたと。そういうことかねジークフリート少尉」
「はい」

 会議室で、アモン将軍が包帯も取れぬジークに質問をしていた。

「ナックラヴィーについては軍でもある程度情報を保持している。問題なのはそいつを従えていた魔導師についてだ。奴が何者で、何が目的なのか……アシュタロスほどの魔神が封じた相手、軽視はできまい」
「はい」

 その時、ヒキガエルのようなぶよぶよに太った魔族将校が立ち上がり声を上げた。

「そもそも今回の任務はエネルギーの調査と仲間の捜索だったはず。それを忘れ、分もわきまえず調子に乗るからこんな事になってしまったのだ。ただでさえ忙しい時期に、余計な問題を持ち込みおって」
「おっしゃる通り……全て私の責任です」

 返す言葉などあるはずもなく、ジークは唇を噛みうつむいていた。
 それからも周りから非難の声が次々に上がったが、アモンが一喝すると会議室は一気に静まりかえった。

「彼を責めたところで問題は解決せん。ジークフリート、お前には魔導師ルシエンテスの追跡と調査を命じる。自分の責任は自分で果たすのだ。よいな?」
「はい、必ず。魔族の誇りに懸けて!」

 ジークは深く一礼し、会議室を後にした。

(今回生き残れたのは運だけだ。姉上の御守りがなければ、皆やられていた。ルシエンテス……奴は一体……)

 この問題は想像以上に深いものではないのか。
 ジークの胸に、ふとそんな予感がよぎるのだった。




 灰色の建造物が天を突くように所狭しとそびえ立っている。
 極彩色のネオン。
 すれ違いながら流れていく白と赤の光の群れ。
 鉄の骨で組み上げられた塔の上で、排気ガスに汚染された風を受けてそれらを見下ろす影があった。

『ファファファ……ちょっと見ないうちに、ずいぶんと面白い世界を作り上げたものよ。人間というものは進歩せんものだと思っておったが、なかなかどうして。遊び甲斐のありそうな時代じゃて』

 塔の上であぐらをかくようにして、ミイラがふわふわと浮いていた。
 眼前の闇に浮かび上がる都市を見つめながら、満足そうにカタカタと顎を鳴らす。
 やがて自分の姿に目をやると、腕を組んで考え始めていた。

『ふむ、さすがにこの格好ではつまらんのう。わしの事業を成し遂げるにあたって、優秀な助手も欲しいところじゃな……では、そこから始めるとするかな』

 ミイラは赤い煙に姿を変え、風に乗って闇の中へと消えていった。
 封印を解かれた不死の魔導師ルシエンテスは、人間界へ赴き、密かに動き始めていた。




 ジークは体調が完全ではなかったため、もう一日だけ入院することになった。
 魔界の病院とはいえその内部は人間のそれと大差なく、受付や薬局や売店などもある。
 ただし、看護師の女性魔族は白衣の背中からコウモリの羽が出ていたりするし、医師は手術の度に怪しい器具を出して薄笑いを浮かべたりと、やはり違うのだが。
 ジークは自販機でコーヒーを買い、中庭のベンチで今後について考えていた。
 何人もの患者や看護師が目の前を通り過ぎて行ったが、しばらくすると自分の前で前で足を止める者がいた。
 ふと顔を上げると、そこには申し訳なさそうな顔をしたハーピーが立っていた。

「やあ、ハーピー。怪我の具合はどうだ?」

 ジークはあくまで明るく、その表情に気付かない素振りで尋ねた。

「あ、あのさ。悪かったじゃん……あたいのせいで」
「君が悪いわけじゃない。あれは私のミスだ」

 返された言葉に、ハーピーは心底バツの悪そうな顔をしたが、やがて真剣な表情で言った。

「ジークはまだあの魔導師を追うんだろ?」
「ああ」
「だったら、あたいも手伝うよ!」

 予想通りの答えにジークは目を伏せ、静かに首を振る。

「今回は運がよかったから生き延びられたが、奴は危険すぎる。手を引くんだ」

 しかしハーピーもまた、激しく首を振った。

「あんたに借りを返さなきゃ……あたいの気がすまないんだよ。何でもするから……頼むよ!」

 ハーピーの目は真剣そのものであり、こういう相手に何を言っても無駄だということはジークにも良くわかっていた。
 深くため息をつくと、ジークは人差し指を立ててこう言った。

「たとえ納得がいかなくても、私の指示に従うこと。それを守れるなら、だ」
「う、うん、ありがとうじゃん!」
「お、おい!?」

 ハーピーは喜びのあまりジークに抱きつく。
 思いもよらない行為に戸惑う朴念仁のジークだったが、ふと正面に目をやって背筋が凍りついた。

 ハーピーの後ろ。
 そこに、静かな怒気を発するベスパが。
 髪が霊気で舞い上がり、笑顔であるのに眼が笑っていない。

(姉さん事件です! なんだか僕は大変な状況に……はうっ!?)

 真っ青になったジークに、さらに追い打ちを掛けるように飛び込んできたものはベスパのさらに後ろにある木の陰から、すごい目つきでこちらを凝視しているワルキューレの姿だった。
 おまけにその手には白い布(※注1)が握られている。

(ああああああああっ!?)

 その後、ジークはもう一日余分に入院するハメになるのだが、その理由について彼は一切語らなかったという。







 ※注1……当サイトSS『お姉さんは心配性!!』参照
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