蜂と英雄

モドル | ススム|モクジ

  第16話  

「ところで小僧、ワシがぶった切ってやった――」

 老獪な魔導師の瞳が紅に妖しく光る。
 彼の視線を向けられると、全てを見透かされているような悪寒が背筋を貫く。
 ――心を覗かれている。
 心の隙を突かれぬため、思考プロテクトを施しているというのに、それをこじ開けんとする強力な精神波が、いつの間にかジークを包み込んでいる。
 すでに戦いは始まっていた。
 ルシエンテスがわずかに口をすぼめ、小さく息を吸い込むところをジークは見逃さなかった。

「脚の具合はどうかね?」

 ふっ、と吐き出されたわずかな呼気。
 それは魔力を伴い、肉眼では捉えられぬ真空の刃となって放たれた。
 ジークはそれが見えていないのか、構えも取っていない。
 なんとたやすい――そうルシエンテスがほくそ笑んだ刹那。
 背後より立ちこめる殺気が、深いしわの刻まれた目元を見開かせる。
 まばたきよりも素早く、ジークは死角に回り込んでいた。

「同じ手が二度も通じるものか」

 その手にはすでに拳銃が握り込まれ、ルシエンテスの後頭部に狙いを定めていたが、ジークは引き金を引かなかった。
 ルシエンテスの周囲には、あらかじめ魔力によって作られたシールドが展開されていた。これに気付かず引き金を引けば、跳ね返った弾丸が自らに襲いかかっただろう。

「撃たんのか。用心深いのう」
「お互い様だ」
「ククク、これはこれは。お前をいささか見くびりすぎておったようじゃ。では、こんなのはどうかな?」

 ルシエンテスが指を鳴らすと、ジークの身体より二回り以上も巨大な氷の塊が魔力によって生成され、落下してきた。それを難なく避けるジークだが、氷の塊は地面まで落下せず、空中でピタリと止まる。
 やがて表面に細かい亀裂が疾り――氷の塊は粉々に砕け散るが、鋭く尖った無数の破片が四方に飛び、それらは渦を巻いて氷の嵐と化す。

「ぐッ――!?」

 手足を数カ所ほど切り裂かれ、ジークはたまらず後退する。傷口は瞬時に凍り付き、激痛を伴う凍傷となっていく。人間ならばこれだけで戦意を失ってしまうところだが、魔族であるジークは肉体の感覚を意識的に切り離すことができる。
 ――大丈夫だ、傷は深くない。
 それを確かめると、大きな氷の破片を見極め、冷静に避けていく。
 最後の破片をやり過ごして反撃の体勢に入ろうとすると、宙を舞う氷の破片は向きを変え、

(追ってくるのか!)

 それ自体が意志を持つように、氷の嵐は執拗にジークを追跡してくる。これではいずれ追いつめられ、力尽きてしまう。ジークはしばし飛び回り、破片が一時的に一ヶ所に集まるように仕向けると、その瞬間を逃さず一発の銃弾を撃ち込む。放たれた弾丸が氷の破片に命中した刹那、翠玉の輝きを思わせる閃光が発し、氷の嵐を包み消し去った。

「精霊石の弾丸か。味な事をしてくれるわい」
「遊び半分の手で殺せはしないぞ。今のうちに本気を出しておくことだ。でなければ――」

 ぎりっ、と拳を握り締め身構えるジーク。
 何かを仕掛けてくることは一目瞭然。
 ルシエンテスには、彼が何をしてこようとも回避する自信があった。
 だが彼の耳に囁かれた言葉は、初めて彼の心胆を寒からしめる。

「後悔するぞ」

 そう、それはすぐ傍で『囁かれて』いたのだ。
 来るとわかっていたのに、気付いた時には間合いに入られていた。
 山の鍛冶神がジークに与えた腕輪の力を、ルシエンテスは知らない。
 認識した瞬間、ジークの鉄拳が頬にめり込んでいた。
 打撃を防ぐシールドを展開させるヒマすらもなかった。

「ぬぐッ……!?」

 頭蓋骨がきしむ。
 奥歯が数本折れ、口内が裂けて鮮血が吹き出す。
 派手に吹き飛んだ身体をどうにか立て直すが、目の前にはすでにジークが間合いの内に位置取ってこちらを睨んでいる。殴られた拍子にハットは飛ばされ、ゆっくりと火口へ落下して燃え尽きてしまった。
 口元から数滴の血が滴り、シャツに紅の染みをいくつも作っていく。

「しばし見ぬ間に、ずいぶん速くなりおったな……少々油断したぞ」
「俺の仲間や無関係の人間達が受けた痛み、その程度ではないぞ」
「痛みなどと……馬鹿者めが。服が汚れてしまったではないか」
「さあ、この距離で得意の魔法が使えるか?」
「今日は以前にまして活きがいいのう。だが――」

 折れた歯を吐き捨て、あくまで飄々とした態度でルシエンテスはステッキを握る手に力を込める。

「いつまでも調子に乗るのはけしからんな!」

 電光石火の三段突きが繰り出され、肝臓、喉、心臓を正確に狙う。苦し紛れではない、磨かれ熟達された技だった。
 ジークは咄嗟に身を逸らして回避するが、最後の一撃を避けるのと同時に、顔面に迫る鋭い蹴りが放たれていた。
 骨がぶつかりあう鈍い音が響く。
 反射的にブロックしたものの、予想以上の蹴りの重さにジークの腕が痺れてしまう。ルシエンテスはその隙を見逃さず、ジークの痺れた腕を掴んで、力任せに上空へと放り投げた。

「ほれっ」

 ルシエンテスの掌から火球が発射され、体勢を整えられないジークに命中し爆裂する。それを皮切りに次々と火球が撃ち込まれ、次第に巨大化していく爆発がジークを包み込んでいく。
 鋼鉄をも溶かしひしゃげさせる高熱と圧力。
 大気を揺るがす轟音と爆炎の向こうにジークの姿はかき消されてしまう。
 格闘技と魔術を織り交ぜた戦法。
 これはルシエンテスが、接近戦にも長けているという証明でもある。老獪な魔導師がその様子を見つめていると、炎の向こうから乾いた音が響き、弾丸が放たれた。

(やはりこのくらいじゃ死なんか。元気なヤツじゃのう)

即座にシールドで弾き返そうとすると、跳ね返る直前に弾丸はまばゆい閃光を放ち、視界を奪う。

「む……同じ芸は通じんと言ったのはお前じゃろうが、まったく」

 ホワイトアウトした視界の向こうで、影が素早く動いたのをルシエンテスは捉えていた。
 危険を感じたルシエンテスは後方に大きく飛び、間合いを取る。
 視力がわずかに回復したと思った刹那、超スピードで眼前に迫るジークの姿が両眼にはっきりと映り込んでいた。
 彼は長剣の柄に手を掛け、鞘から抜かんとしていた。
 相手が何をしてこようと、不死身の自分が負けるなどと露ほども思わない。が、ジークの瞳に宿る必殺の気配をルシエンテスは敏感に感じ取っていた。
 ――これを受けるべきではない。
 老獪な魔導師は即座にそう判断し、火球を目の前に作り出し、爆発させる。あとわずかで間合いに踏み込もうとしていたジークの身体は、火炎の熱と圧力に押し止められてしまう。
 ジークが炎を振り払いルシエンテスを目で追うと、彼は爆発の圧力を利用してさらに大きく距離を取っていた。
 その用心深さに舌打ちしつつ、ジークは柄から手を離す。

「男子三日会わざれば刮目して見よ、ということわざがあるが……今日は歯ごたえが違うのう、小僧」
「逃げるとはずいぶん消極的じゃないか」
「嫌な予感がしたものでな。年寄りの勘は大したもんじゃろう?」
「まったく恐れ入る」

 不敵な笑みを浮かべつつ、ルシエンテスはジークの剣に目を留めた。

「それがお前の切り札、というわけか。振り回してこないところを見ると、気安く扱える代物ではなさそうじゃな。使えてせいぜい一度か二度くらいと見たが、どうじゃな?」

 その言葉にジークの瞳の奥がわずかに揺らいだのを、ルシエンテスが見逃すはずもない。

「ククク、図星か……なぁに、初歩的な推理じゃよワトソン君」

 人差し指を立て、チッチッとジェスチャーをしてみせるルシエンテス。
 手の内を見透かされ、ジークの頬に嫌な汗が伝い落ちる。
 こと心理に関わる土俵では、やはり相手の方が一枚も二枚も上手だと認めざるを得なかった。

(――とはいえ、少々困った。この肉体では小僧の動きを目で追うのが精一杯か。もはや人間では付いていけん世界に突入しとるからのう……)

 真っ白なヒゲをさすりながら、ルシエンテスは考える。
 相手の切り札がわかったとはいえ、ジークから感じた必殺の気配と、どういうわけか飛躍的に上昇しているスピードは侮れない。これ以上の戦いを続けていれば、憑依している人間の身体などあっという間に使い物にならなくなるだろう。最悪、想定外のダメージを受けてしまう可能性も充分考えられる。
 だからこそ常に手下を敵に仕向け、極力自分は戦わずにすむように努めてきたのだ。しかしこのままでは、この肉体を捨てて戦わざるを得なくなる。気に入っている姿を失う事は、彼にとって極めて屈辱であった。

(やれやれ……適当な魔物の一匹でも連れておくべきだったか――)

 間合いを保ちながらルシエンテスは次の手を考える。
 ジークもまた、いかにして敵の魔力を浪費させ隙を突くかに思案を巡らせていた。

 その時――

 海と大地を揺るがす地響きと共に火山が鳴動を始め、紅蓮の火柱が天高く突き抜けた。赤熱した岩石や溶岩が、赤く燃え盛る雨となって降り注ぐ。止めどなく溢れる灼熱の濁流が、いくつもの筋を作り斜面を流れ落ち、エトナ火山の上空に重い暗雲が立ちこめ、覆い隠していった。

「これは――!?」
「ファファファ、魔神が猛っておるわ……地の底より這い出し、自由になりたいとな!」

 太陽の光は遮られ、真夜中のような暗闇が訪れた。
 天は大地を揺るがすうなり声を上げ、稲妻が天と地の狭間を切り裂き疾る。風は吹き荒れ渦を巻き、天へ続く柱の如き竜巻へと姿を変えていく。
 動物が、建物が、大地が――全ての物がなすすべもなく呑み込まれ、蹂躙された。巻き上げられた瓦礫や草木はその強大なエネルギーの奔流にねじ曲げられ、粉々に砕け飛び散っていった。
 シチリア島へと向かっていた逆天号からその様子を見ていたワルキューレは後に語る。
 それはまさしく悪夢の体現であり――うねり暴れる巨大な竜巻が、あがき這い出そうとする者の手のようであったと。
 火口から伸びる灼熱の火柱は、夕焼けの太陽よりも紅く燃えていたと。

「あの竜巻が何だかわかるか? あれは苦しみ悶える奴の指先よ。たったそれだけでこの凄まじさ……見たい、何としても! 破壊の権化の全てをワシの目で!」
「奴を解き放てば、全てが滅び失われてしまうことが何故わからない!」
「滅びようが生き残ろうが、そんなことは貴様らが勝手にしていればよかろう。ワシはただ見たいだけじゃ」
「何だと……貴様はこの世界に君臨するのが目的ではないのか!?」
「神、魔物、人間などと……小さな話よ。所詮貴様らは、誰かが決めた枠の中でしか生きていけぬ。だが、ワシは違うぞ。誰にも指図されぬ。思うままに、したいようにするだけよ。魔族とはそういうものであろう?」

 その言葉に、表情に、瞳の色に。
 一切の感情が含まれてはいなかった――嘘でさえも。
 それはあくまで、認識する事実として淡々と語られたに過ぎなかった。大義名分があるわけでも、憎悪に駆られているわけでもない。
 ――ただ、したいからするだけ。
 そのためならば、全てを破壊し犠牲にしても構わぬと。
 魔としてあまりに純粋すぎる答えに、ジークは湧き上がる戦慄を禁じ得なかった。

「何なんだ……お前は、いったい何なのだ!」
「ククク……ワシにここまで食い下がってきたのは後にも先にもお前だけじゃ。そのしつこさに免じて聞かせてやろう……かつてワシが誰であったかをな」

 白髪の老紳士――いや、その身体を借りている狂気の魔族は語る。
 魔導師ルシエンテスという存在がいかにして誕生したのかを――




 約七百年前。
 ドクター・カオスが全盛期を迎えていたのと同じ頃。
 イタリアのとある街に、ひとりの男がいた。
 男は自閉症気味で他人と接することを好まず、常に冷めていた。何かに熱中したり、執着するということが彼の中には存在しなかったのである。だから三十路をとうに越してもろくに働かず、家の中に閉じこもってばかりいた。社会に適合できない落ちこぼれ――それが彼に対する社会の評価だった。
 ところが、男は美術に関して希有な才能を持ち合わせていた。絵を描いたり、粘土をこねて動物や人間の彫刻を作ることが、彼の退屈しのぎであったが、毎日黙々とそれらを作り続けているうちに、才能は磨かれ開花し、いつの間にかその技術は芸術の域にまで高められていく。
 そうして作られた美術品の完成度は素晴らしく、彼の母親がそのひとつを市場に持っていったところ、予想もしなかった高額な値段で買い手が付いたのである。こうして男は、図らずも日々の糧を得て、自立する事ができるようになった。

 それでも、彼の退屈は消えることはなかったが。

 ある日――男は彫刻の材料の粘土が足りなくなったので、いつものように川べりの土手へと向かった。これまでいろいろな粘土を使って彫刻を作ってみたが、ここで採れる粘土が一番具合が良い。
 足を滑らせないように注意しながら川岸へと降りていくと、川の真ん中に誰かが立っている。水深はさほど深くはないが、流れは見た目より速く、安全であるとは言い難い。
 何をしているのだろうと目を凝らしてよく見てみると、それは若い娘の後ろ姿だった。
 淡い紫の髪が背中を覆い隠していたが、その奥に隠れているしなやかで美しい肢体に思わず息を飲む。
 その娘は、衣服を身につけていなかった。

(なんて美しい……それに、普通の女と何か――)

 娘が纏う不思議な雰囲気を、男は確かに感じた。
 それは今まで感じたことのない衝撃となって、彼の心に突き刺さる。
 のぞき見をしているという事さえ忘れてしまうほど、それは強烈な体験だった。
 娘は川の透き通った水をすくっては身体にふりかけていた。彼女の仕草ひとつひとつに、言い知れぬ興奮と感動を覚えている自分がいる。
 やがて娘が身体の向きを変えたため、裸身の全てがあらわになった。
 つり上がった目元に、縦長の細い瞳孔。
 高く通った鼻筋と、藍の口紅を引いた肉感的な厚い唇。
 肌は透き通るように白く、張りと艶のある豊かな乳房。
 そして砂時計のようにくびれた腰と、すらりと伸びたしなやかな手足。
 少女の面影を残す娘は、男が今まで見てきた誰よりも素晴らしい美貌を持ち、一度捉えられたが最後、決して逃げ出せぬような妖しさをその身に纏っていた。
 男は目を見開き、ごくりと息を呑み込んだ。
 生まれて初めて感じる衝動が灼熱のマグマのように沸き上がり、駆り立てる。
 だが彼の脳裏にあったのは、卑しい下心よりもむしろ、新たな境地を垣間見た芸術家のそれに近かった。

(私は今日まで美しいと呼ばれた人間の絵や彫刻をいくつか作ってきたが、彼女はそれらを遙かに上回っている――)

 まさしく生きた芸術品。美貌もそうだが、特にこのゾクゾクするような妖しさは今まで感じたことがない。
 ――知りたい……この感覚の正体を。
 そして自らの手で、彼女の纏う雰囲気を再現できないだろうか。
 いつしか男はその事だけに心奪われ、もっと近く、より鮮明に全てをこの目に焼き付けておこうと身を乗り出し、運悪く足元にあった小石を蹴飛ばしてしまう。
 その音に気が付き、娘は男の存在に気付く。

「誰だ!」

 氷点下の殺気が男を射抜いた。
 蛇に睨まれた蛙のように、男は体がすくみ硬直してしまう。
 気付けば目の前に娘が立っており、刺すような視線が向けられていた。

(やはり違う……この世の物では)

 そう思った瞬間、喉元に凄まじい激痛が走り、呼吸が出来なくなった。
 もがきながら目線を下ろしてみると、娘が右手一本で喉を掴み、身体を持ち上げているのだ。この華奢な細腕のどこにこんな力があるのか――振りほどこうとしても、まるでビクともしない。
 意識が遠のきかけたその時、男は川の中に放り投げられた。
 呼吸が苦しいところを水の中に落とされ、しこたま水を飲んでしまった男は苦悶の表情を浮かべて川岸に這い上がる。両手を地面に付いて激しく咳き込んでいると、娘はサディスティックな表情を浮かべて男の背中を踏みつけた。やはりものすごい力で、男は地面にへばりつくことしかできなかった。
 男を見下ろしながら、娘は次の言葉を発した。

「ふん……人間の分際であたしの裸を覗くなんて、いい根性してるわねぇ。この代償、あんたの命で払ってもらおうじゃない」

 水に濡れて光る髪がひと房、意志を持ったように男の首筋に掛かる。
 ふわっと鼻腔をくすぐる甘い香り。滑らかな感触。それだけで脳がしびれそうな気がする。
 しかしそれも束の間、それはみるみるうちに醜い怪物へと変化していく。頭の中心から背中へと伸びるたてがみと、イボのような無数の眼を持ち、巨大な口に鋭い牙が生え揃った――大蛇のような怪物へと。

「うわ……わ、ひええッ!?」

 地面に押しつけられた顔の横で不気味な怪物がガチガチと牙を鳴らすと、本能的な恐怖から男はみっともない悲鳴を上げる。
 その声を聞いた娘は心底楽しそうに男の顔を覗き込む。

「ほうら、もっと情けない声を出して命乞いをしな。コイツに噛まれるとアンタは石像になって、ゆっくりと死んでいくんだ――あはは!」

 石像――その言葉を聞いた瞬間、すっかり混乱しきっていた男の思考は一気に引き戻された。
 何が起こったのかはやはりわからないが、とにかく自分は殺されそうになっている。普段ならば生きることに未練など持たぬ自分であるが、今は違う。彼女の全てを再現した作品を作ってみたい――その思いだけが、彼の全てを支配していた。

「じ、時間――時間を」
「あ?」

 予想していたどの言葉とも違う返答に娘は眉をひそめる。

「一度でいい……君の姿を私の手で再現してみたい。だからそれまでの時間をくれ」
「あたしの姿? おっさん、最近流行りのゲージュツ家ってやつかい?」
「絵や彫刻で生活している人間をそう呼ぶなら――そうなんだろう」
「あ、そう……でもね、そうやって上手くはぐらかそうったって」
「作品が完成したら――その後は好きにしてくれ。住所は教える。正直、生きているのは退屈だから……それを最後に終わってみるのも悪くない」

 娘はしばらく沈黙していたが、やがて彼の背中から足をどける。
 男に顔を上げないようにきつく言うと、布地の少ない衣服を手早く身に纏った背中と肩、そして脚と、女性の服装はかなり露出が多い。服を纏う彼女の姿は、裸体とはまた違った魅力と、健康的な色気がある。
 ようやく身を起こすことを許された男に、娘は不機嫌極まりない顔をして呟いた。

「ふん、興が削がれたわ。生きる気力のない人間を殺したって、魔族の間じゃ笑い物になるだけだからね」
「魔族……実際に会うのは初めてだ」
「あたしはメドーサ。こう見えても札付きの悪党よ。昔住んでた土地を、悪さのしすぎて追放されたくらいのね」

 メドーサと名乗った娘は、見つかった時よりも数段強力な殺気を放つ。たったそれだけで男は吹き飛ばされ、土手に叩きつけられる。彼女が魔族であるという、これ以上ない確かな証明であった。

「あたしの絵でも何でも、作りたければ好きにしな。せいぜい長生きしてつまらない人生を過ごすがいいわ!」

 そう言い残し、メドーサは紫の髪をたなびかせながら宙に舞い、空の彼方へと消えていく。男は半ば呆然としながら、いつまでも彼女が消えた虚空を見つめ続けていた。

 その日から、男の中で何かが大きく変わっていた。
 彼は自分のアトリエにこもり、不眠不休でメドーサの姿を再現させるべく作品を作り始める。
 初めは絵を描いてみた。
 だが、何枚描いても納得できる絵は描けなかった。
 平面であることがいけないのか――そう思い、こんどは彫刻を作る。
 記憶のひとつひとつを正確に思い出し、やがて精巧な彫刻が完成した。造形、表情、仕上がりの美しさと、どれをとっても申し分ない。
 今まで作り上げてきた作品の中でも最高の出来映えだった。
 ところが、いざ完成してみると男は重大な事にようやく気が付く。

 ――何かが足りない。

 そう、あの日――メドーサを目の当たりにした瞬間に感じたもの。
 彼の心を惹きつけてやまないあの雰囲気。
 最高級の香水さえ霞んでしまいそうな、匂い立つあの妖しい気配が足りないのだ。造形の再現にばかり気を取られ、失念していた。だが、造形的にはこれ以上手を加えられないため、男は行き詰まってしまう。
 失望した男はそれまでの疲れもあって、数日間を泥のように眠って過ごした。

 そしてある朝、夜明けのまどろみの中で彼は夢を見る。
 メドーサの魅惑的な唇の動きを見つめているうちに、男はひと筋の光明を得て勢いよく飛び起きる。
 ――そうだ、彼女は魔族であった。
 彼女にあってこの彫刻に足りないもの。
 普通の暮らしをしていておよそ知り得ぬであろう感覚。
 その正体はおそらく、魔族が魔族たる根源の力――魔力に違いない。
 この彫刻に魔力を宿せば、きっとこの作品は完成するだろう。
 こうして男は、魔力を手に入れるためにオカルトの研究に着手する。
 男は学問の憶えも速く、砂が水を吸うかの如く知識を貪欲に吸収していった。文献を読み漁り、霊能者を捜しては教えを請い――そうしてようやく答えに辿り着く。

 それは人間の――とりわけ若い女の生き血を悪魔の祭壇に捧げ、彫刻に吸わせるという邪法であった。

 男はメドーサに出会うまで、何かに熱中したり執着したことはなかった。すべて退屈で、くだらない。だから他人にも、自分自身にも常に無関心だった。それが今、何としても成し遂げたい目的が心の全てを支配している。もはや彼にとって、それが全てだと言っても過言ではなくなっていた。
 倫理も罪悪も、男にとって何の価値もない。
 自分自身の命にさえ執着しなかった人間が、どうして他人の命に関心を持つことができようか。

 方法があるのなら、それをただ実行するのみ――

 人間社会で暮らす一員として、男は精神構造に致命的な欠陥を抱えていた。決して越えてはならぬ一線――誰もがためらい悩むはずのそれを、彼はいともたやすく踏み越えてしまう。
 子供が花を摘むように、戯れに虫を踏み潰してしまうように。

 そして――

 満月の夜、ひとりの若い娘がこの世界から姿を消した。




 ついに完成したメドーサの彫刻を前に、男は人生で初めて心の底から笑っていた。血を吸い魔力を宿した彫刻は、あの時のメドーサと同じような、心に迫る妖しさを放つ。

(何と素晴らしい――今まで作り上げてきた全てがゴミに思えてくる)

 それほどまでに、心が躍った。
 しばらくの間は彫刻と共に家に閉じこもり、自らが成し遂げた成果に満足しながらそれを眺め続けていたが、それは終わりではなく、始まりに過ぎなかった。 
 やがて、男の中に新たな欲望が沸き上がってくる。
 この世にはまだ自分が見たことのない魔族がたくさん存在しているはず。彼らもまた、今回と同じように自分に興奮と感動をもたらしてくれるに違いない。

 ――もっと見たい、知りたい……作りたい!

 心はすでに、引き返せぬほど魔の虜となってしまっていた。
 歯止めは――いや、最初からそんなものは存在しない。
 そして男は旅に出る。
 まだ知らぬ魔族の姿を求め、自らの手でそれを再現するために。
 男は魔族の姿を求めて世界中を巡り、そして彫刻を作り続けた。

 ひとつ作るたび、ひとつの命を捧げながら。

 しかし、そんな生活も長くは続かない。
 その所業はやがて人々の知るところとなり、彼は捕らえられる。
 魔物の偶像を作り、数え切れないほどの命を奪った殺人鬼として、裁判で彼に下された判決は、当然死刑であった。
 ところが――オカルトの研究を続け、魔術の奥義を身につけるまでになっていた男は死ななかった。
 絞首台に吊るすと、何度やっても縄が切れる。
 槍で突いても、血が流れない。
 水に沈めても、火であぶってもまるで効果がなかった。

 困り果てた人々は、当時名高い錬金術師であるドクター・カオスに助言を求めた。カオスはその男が魔力に魅入られ、普通の方法では殺せない術を身につけていることを見抜く。
 そこでカオスはひとつの方法を提案した。
 生命の育たぬ死の砂漠に魔力を封じる構造の塔を建て、男を幽閉する。外界と遮断された男は魔力を補給できず、やがて干からびて死ぬだろう――と。




 カオスの指示によって男は長い道のりを運ばれ、死の砂漠に取り残された。男は数ヶ月も飲まず食わずで生き抜いたが、そろそろ限界が近付こうとしていた。塔は砂嵐で半分以上砂に埋もれ、外界との繋がりといえば手が一本通るくらいの小さな窓だけ。
 その窓から絶望的に広がる砂漠を見つめ、男は思う。
 自分は心を震わせる理想を、幸福を追い求め、そのためだけに生きてきた。
 旅をしながら見てきた人間達は、誰しも形は違えど自分と同じように生きていたはずだ。
 それなのに、なぜ自分だけがこれほど糾弾されなければいけない?
 これが人間の、誰が決めたかもわからぬシステムだというのか。
 ――なんとくだらない。
 自分は、こんなつまらない最後を迎えるのか。
 まだ何も満ち足りていないというのに。

(解き放たれたい……この場所だけでなく、全てのくだらないしがらみから)

 どれほど願ってみても、この場所では詮無きこと。
 やり場のない感情を憶え、窓の縁に積もった砂を握りしめたその時、砂を踏む足音が聞こえた。貼り付くように窓を覗くと、そこには黒ずくめの服を着た人間が立っていた。
 フードで頭部を覆い、その表情をうかがい知ることは出来ないが、久しぶりの人間に、男は話しかけずにはいられない。

「あんたが誰でもいい。出してくれ……ここから」
「それはできません」

 異様な風体からは想像も付かないほど、それは柔らかな声だった。

「そうか……私の最後を見物に来たのか」
「私はこの砂漠に暮らす者……あなたを最期まで見届けるよう、ドクター・カオスに頼まれました」
「名前は」
「え?」
「誰かもわからない奴が最後の話し相手では……いささか虚しい」
「……そうですね」

 黒ずくめの人物は小さく頷くと、ゆっくりとフードを脱いでいく。
 溢れるように黄金の髪が流れて腰まで垂れ、その瞳はエメラルドのように透き通っている。
 美しい女だった。

「私はアンジェラ……人々からは、砂漠の魔女と呼ばれています――」

 女が問う。
 あなたの名を聞かせて欲しい――と。

 男は答える。
 半ば忘れかけてさえいた、ルシエンテスという名を――
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