蜂と英雄

モドル | ススム|モクジ

  第15話  

 剣は力と権威の象徴であり、場合によっては世界を動かすほどの大きな力を秘める道具だった。世界中の神話や伝説を見ても、剣にまつわる逸話は数え切れないほど存在する。
 神や魔にも刀鍛冶を生業とする者が存在し、彼らが手ずから制作に関わった剣は強大な力を秘め、持ち主に栄光や数奇な運命をもたらした。
 様々な道具を作り出し、人間達に与えた鍛冶神たちは深く信仰されたが、それ故に彼らの作った剣や道具を巡って争いが絶えず、それを恥じた鍛冶神はいずこかへ去り、表舞台から姿を消してしまう。武器が剣から銃へと移り変わった現代において、魔界でも刀剣の匠の存在は稀少かつ貴重なものに変わりはないのである。



 固く歩きにくい足場を踏みしめながら、ジークは草木一本生えぬ岩山を登っていた。ふもとまでは飛んで近付けたが、このあたりの空には体長十メートルを超すような怪鳥が無数に飛び回っていて、見つかればたちどころにエサにされてしまうだろう。
 そのため、険しい岩肌を徒歩で登ることを余儀なくされた。
 断崖絶壁。道無き道。槍のように鋭く尖った岩石――脆弱な生命の侵入を拒絶する地形が、容易には先に進ませてはくれない。溶岩が固まって出来た足場は所々で脆く、何度も崩れては奈落へ引き込もうとする。
 この山のどこかに、強力無比な武器を作ることのできる鍛冶神が住んでいるという。

(――彼に会い、魔剣を鍛え直してもらわなければ、奴には勝てない)

 決意の光を瞳に宿し、迷い無くジークは進んでいく。
 断崖の頂上に手を掛け、這い上がったジークの眼前には、なだらかな広場のような空間が広がっていた。休憩を取るにもちょうど良く、今までの険しさとうって変わった雰囲気である。
 ジークは広場の中心当たりまでやってくると、周囲を見渡す。あるのは眼前にそびえ立つ巨大な一枚岩と、さらに続く岩山の斜面だけ。

「確かこのあたりのはずなんだが」

 ポツリと呟いて一枚岩に触れたとき、何か鼓動のようなものを感じて、ジークは思わず手を引っ込めた。

「誰だ……」

 地響きにも似た、低く威圧感のある声が響き渡る。
 声の出所を探して視線を動かしていたジークは、一枚岩の上の方を見て息を飲む。
 岩の表面に大きな目玉が現れ、ギロリと見下ろしていた。
 反射的に飛び退いたジークをじっと見つめる目玉から、さらに声が響いた。

「何の用か知らんが、帰れ。誰とも関わりたくない」

 巨大な眼の言葉に拒絶はあるが、今すぐ襲われるような敵意は感じられない。それを感じ取ったジークは、背筋を伸ばし姿勢を整え、目玉を見上げながら答えた。

「ジークフリードと申します。突然の訪問申し訳ありませんが、どうか私の願いを聞いて頂きたい」
「帰れと言ったのが聞こえなかったのか。お前の頼みを聞く義理もない」
「これを……」

 鈍重に響く拒絶の声に、ジークは鞘に収められた魔剣を突き出した。
 それを見た一瞬、目玉が見開かれ瞳孔が広がるが、それもすぐに収まり、何事もなかったかのように目玉はジークを見下ろし続けた。

「貴方にこの剣を打ち直してもらいたい」
「……打ち直すだけなら人間でも出来る。そういう剣のはずだ」
「邪悪で強力な魔導師を封じるために、魔力を打ち破る剣が欲しいのです。私が求めるものは、人間には作れない。鍛冶神である貴方でなければ」
「お前は私が誰だか知っておるようだが……ならば私が断ることも理解できただろうに」
「その魔導師は、太古の魔神テュポンを甦らせようとしています。奴が甦れば世界は蹂躙され、魔界や天界も無事では済まない。この危機を関係ないと言い逃げるなら……貴方は永久に臆病者の誹りを受けることになる」
「私を脅かそうというのか」

 肌が焦げ付くような威圧感を放つ目玉を、ジークは毅然と見つめ返す。

「もうひとつ……この剣は古き大神の生み出した比類なき神器。それを鍛え直すため鎚を振るうことは、鍛冶師にとって至上の喜びのはず。これを見て貴方の心が揺らいだのを私は知っている」
「弁の立つ若者だ……いちいち正論であるから言い返す気も起こらん」

 一拍の間を置いて、目玉は答えた。

「よかろう。手を貸してやる。だが……」

 低く重い声が響き渡ると同時に地響きが起こり、眼前にそびえる岩が激しく鳴動する。細かく砕けた表面の破片が降り注ぎ、腕で頭部を庇いながらジークは後退した。
 直後、大気が震える衝撃と共に岩の表面が弾け飛ぶ。
 片手片足、巨大な独眼を持ち、一房のみの髪を縛った黒い皮膚の巨人が、そこに立っていた。落ち着いた口調からは想像出来ぬ醜怪な巨人は、顔の半分ほどもある大きな口を開く。

「お前はこの魔剣のために何を捧げる。我が鍛えし魔剣は、容易く手にできるものではないぞ」

 巨人の問いかけに、ジークは躊躇わず答えた。

「命運すべてを賭して。神話の時代より続く英雄の血族として、運命に従うことを誓います」
「よろしい……もし一言でも言葉に詰まったなら、喰い殺してやろうと思っておったが。お前の覚悟、しかと聞いたぞ」
「ありがとうございます、山の鍛冶神よ。それと度々の願いで申し訳ないのですが、できるだけ早く鍛え上げてもらえないでしょうか」
「構わん。が、人手が足りぬ。お前にも手伝ってもらうぞ」
「喜んで」
「……付いてこい」

 鍛冶神は身体を小さく変化させ、ジークと同じくらいになると、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら斜面を登っていく。
 一本脚だというのに驚くほど素早く、ジークもそれに遅れまいと必死に後を追った。

 かくて山の鍛冶神とジークによる魔剣の鍛え直しが始まった。
 山の側面に開かれた広大な横穴が鍛冶神の仕事場であり、鉄を溶かすマグマの川が洞窟の奥に流れている。二人はその穴にこもり、それから昼夜を問わず鋼を打つ音が響き続けた。
 剣を鍛えながら、鍛冶神は五十の大きな玉が付いた穀竿を取り出し、玉のひとつを外して砕くと、少しずつ鋼のなかに混ぜていく。
 玉にはそれぞれ強力な呪いが込められており、これがグラムに新たな力を加えるのだと鍛冶神は言った。
 ジークも全霊を込めて鎚を振り下ろし、額には珠のような汗が滲んでは流れ続けていた。

 神代より存在し続ける魔剣を鍛え直す作業は非常に過酷であり、結局それが終わったのはちょうど三日目を回った頃だった。
 最後の仕上げは鍛冶神が受け持ってくれた。おかげでジークは身体を休めることが出来たが、それでも最後まで生まれ変わった剣から目を離すことだけはしなかった。
 ようやく完成した新生グラムを手に、鍛冶神はジークの前に立つ。

「完成だ。効果を見せよう」

 鍛冶神は洞窟に流れる溶岩の川へと向かい、鞘から剣を抜く。
 山全体を揺るがす咆吼と共に、刀身が溶岩の川に突き立てられた。
 すると赤く燃え盛っていたマグマが、見る見るうちに黒く冷えて固まり、ただの岩石へと変貌していった。
 生まれ変わった魔剣が、マグマの熱量を全て吸収してしまったのだ。

「す、凄い!」
「都合の良いことばかりではないぞ。見ての通り、この剣は触れた物のエネルギーを根こそぎ喰らい尽くす……が、強すぎる。扱う側もその影響から逃れることはできん」

 鍛冶神は大きく息を吐くと固まった岩から剣を引き抜き、鞘に収めた。ジークにそれを手渡すと、くたびれたようにその場に座り込んでしまった。

「この通り、振るった側も力を吸われてしまう。鞘に収めておるうちは、力を吸われぬようにしておいたが」
「むやみに振り回せる物ではない、と」
「お前がこの剣を抜けるのは、おそらく三度まで。可能なら二度目までのうちに勝負を決めることだ。三度目に剣を抜いた後は……力を吸い尽くされて死ぬ」
「それくらいでなくてはヤツは倒せません。死は覚悟の上です」
「ひとつだけ約束しろ。戦いの結果に関わらず、剣を使い終えたら人の手の届かぬ場所に隠せ。かつて私が鍛えてきた武器は強い力を持った。それ故、誰もがそれを巡り争い血を流したのだ。そのような物は世に出すべきではない。わかったか」
「……肝に銘じておきます。私の身に万一の事があった場合は、姉上が剣を封じてくれるでしょう」
「よろしい。それから餞別をやる。私にはもう必要ないのでな、魔剣共々処分は任せた」

 山の鍛冶神は身に付けていた銀の腕輪を、ジークに投げてよこした。
 銀の棒をただ丸く繋げただけの簡素な腕輪には、巨人の力が宿っており、身につけた者の身体能力を飛躍的に高めてくれるという。これを利用すれば、危険な魔剣を振るう時間もなるべく短時間ですむだろうと鍛冶神は言った。
 一方的に押しかけた自分に対する気遣いに、ジークは胸が詰まりそうになる。まだ運は自分を見放してはいない。そのことが勇気となって心に芯を通してくれた。
 山の鍛冶神は最初に出会った広場までジークを見送り、再びその姿を巨大な一枚岩に変えて目を閉じる。久しぶりに血が燃えた三日間のことを夢の肴に、当分は退屈せずに済みそうだと満足そうに微笑みながら。
 人間達の伝承では、彼はその醜い姿と気難しさから野蛮で粗暴な山の精とされ、ファハンとも呼ばれたという。




 ヒャクメから話を聞いたベスパは、心の奥底に沈めていた記憶を否応なく呼び戻された。
 大事なものが自分の傍から消えていく。
 また何も出来ず、遠くから見ているだけなのか。
 全ては滅びゆく者が望んだ事と諦めるのか。

(――いやだ!)

 残された自分に待っていたのは、後悔と空虚に苛まされる日々。
 あんな気持ちは二度と味わいたくない。
 自分は三姉妹の中で、最も力強い存在として生まれた。
 
 だとしたらこの力は、この命は何のために?

 私はお姫様じゃない。誰かに守ってもらう存在じゃない。
 姉は愛した人間を救うためにその命を燃やし尽くした。
 人間の男はその身さえ投げ出して姉を守ろうとした。
 あの時、自分がひどく孤独で惨めだった。

 ――本当にこれでよかったのか。

 迷いを振り切れない自分と、信じた道を駆け抜けたあの二人とでは、初めから勝負になりはしない。
 物わかりが良いフリをして、本当の気持ちに気付いたときには、何もかもが失われた後だった。
 もう二度と、同じ間違いは繰り返さない。たとえ結末が変えられなかったとしても、じっと見ていることなんて出来ない。
 自分は大人しく待っているような女ではないのだから。

「行かなきゃ……ここにいたって何も変わらないわ。お願いアンジェラ――!」

 ベスパの言葉に、アンジェラはその顔を見上げながら頷いた。異空間のゲートを作り出し、彼女らはその向こうへと跳躍する。
 決着の地であるエトナ火山へと――




「ベスパちゃん!」

 ベスパとアンジェラが異空間に姿を消した直後、息を切らしたパピリオがオペレーションルームに駆け込んできた。つい今までここにいたベスパを見つけられず、パピリオは小竜姫の元へ駆け寄った。

「ベスパちゃんは? ここにいたでちゅよね小竜姫」
「パピリオ、あなたは市街での防衛に当たっていたはずでしょう?」
「あんなザコ連中は人間達に任せておいても平気でちゅ。ベスパちゃんはどうしたんでちゅか」
「彼女は……」
「どうして口籠もるんでちゅか? こないだから何も教えてくれないし、ベスパちゃんに何があったんでちゅか?」

 心配でたまらないといった表情のパピリオの訴えに観念し、小竜姫はベスパの立場、そして何があったのか全てを話した。

「――だったらこんな所でグズグズしてる場合じゃないでしょーが! どうしてみんな黙って行かせたんでちゅか!」
「あ、あのね、私は元々役に立たないと思うし、小竜姫もここじゃ力を発揮出来ないのね〜」
「それにヒャクメは防衛の指揮の為に、ここを離れるわけにはいかないの……ごめんなさいパピリオ」
「わかりまちた。じゃあひとりで行ってくるでちゅ」
「落ち着いて。ここからシチリア島までどれだけ離れていると思ってるの?」
「じっとしてるなんてできまちぇん!」

 駄々をこね出したパピリオに、ヒャクメも小竜姫も弱り果ててしまう。そんな時、聞き覚えのある凛とした声が聞こえてきた。

「気持ちはわかる……が、あまりみんなを困らせるなパピリオ」

 オペレーションルームの入り口から現れたのは、ワルキューレだった。パピリオの傍まで歩み寄って、頭をくしゃくしゃと撫で、顔をヒャクメと小竜姫の方に向けた。

「遅くなってすまないヒャクメ。魔界で用意していた兵鬼の調整が完了した。まもなくローマ上空に出現するはずだ」
「了解。とうとう反撃開始ですねー」
「それからジークのことだが……あいつはここへ?」
「ええ。黄金の林檎を持って、シチリア島へと向かいました」
「やはりか……何をするつもりか知らんが、玉砕戦法など馬鹿げている。パピリオ、ベスパを救いたいなら一緒に来い」
「もちろんでちゅ!」
「それから土偶羅も同行を願えるか? 兵鬼の操縦に経験者がいてくれるとありがたい」
「うむ。ワシがおらんでもこっちの指揮は大丈夫そーだしな。行くとしよう」

 オカルトGメン基地で話がまとまった頃、ローマ上空では大気を揺るがす轟音と共に空間に裂け目が入り、異相空間から巨大な塊が出現する。
 プラズマに似たエネルギーの膜を纏ったそれは、サナギが羽化するかの如くその姿を色濃く現し始めた。機械のようでありながら、確かに息づいている本体と、それを覆う黒く分厚い鎧甲。水牛のように大きく湾曲した角が水平に二本突き出し、左右に開いたり閉じたりする。
 宙に浮かぶ巨大な塊のシルエットは、クワガタムシのそれであった。
 モニターでそれを見ていたパピリオが、声を上げた。

「あーっ、あれって!」
「そうだ、アシュタロスの基地跡より見つかった兵鬼を調整し、運用可能にしたものだ。その名も!」
「そ、その名も?」

 パピリオは目をキラキラ輝かせながらワルキューレの言葉を待つ。

「移動妖塞・逆天号マークUだ!」
「……」
「む……なんだその不満そうなリアクションは」
「っていうかそのまんまじゃないでちゅか。もっとこうひねりの効いたネーミングってものが無いんでちゅかねー」
「仕方ないだろう。私が名付けたわけじゃないんだ」
「どーせだったらサン○ンオーとかイッパ○マンとかドクロ……むぐっ!?」
「それ以上余計なことを口走るんじゃないッ!!」

 スレスレな発言をしたパピリオの口を塞いで、ワルキューレは慌てて周囲を見渡す。
 そして真剣(マジ)な目つきで耳打ちする。

「いいか……本当は違う名前を付けたいところだったんだが、不用意にキャラやら道具やらの名前を捏造すると、恐ろしいことが起こるんだ。察しろ」
「……オ、オトナの事情ってヤツでちゅか」
「そういうことだ。ヘタしたら我々は削除……もとい消されてしまうかもしれない」
「消されるって……誰に?」
「宇宙の意志だ」
「……宇宙の意志でちゅか」
「そうだ」
「そうでちゅか」

 流れる沈黙。

「あっはっはっはっ」

 微妙な空気の会話が交わされていた頃、逆天号マークUは主砲の発射体勢に入っていた。照準はローマ地中海方面で、その方角の空には大挙して飛来する魔族達の集団が見えた。
 双顎の間に莫大な霊力が収束し、臨界点まで高められたそれはおぞましき絶叫に似た轟音と共に放たれる。

 断末魔砲。

 妙神山を含む、世界の霊的拠点をことごとく壊滅させた折り紙付きの破壊力を誇る逆天号の主砲である。圧倒的な破壊の奔流は、ローマ市街の上空を疾り、地中海を一直線に突き抜けていった。
 直撃を受けた魔族達は跡形もなく消え去り、辛うじて難を逃れた者達も、恐れをなして四散していく有り様だった。さらに散っていった連中を追撃する部隊が逆天号から出撃し、形勢は一気に逆転に向かっていた。

「相変わらずものすごい音と破壊力ですねー。そういえば逆天号は上級魔族の霊力が動力源のはずですよね。誰が霊力を?」

 ヒャクメの問いに、ワルキューレが複雑な表情で答える。

「アモン将軍だ。色々候補は挙がったんだが、強引に自分がやると決めてしまってな。パンツを履いて正義のヒーローをやっていた時のことを思い出す、とか楽しそうに呟いていたが……」
「えーと、今の話は聞かなかったことにしておくのねー」
「と、ともかく問題は無い。これで――」

 ヒャクメとワルキューレが話し込んでいた所へ、エトナ火山周辺の状況をモニターしていた魔族女性オペレータが緊急を告げた。

「大変です! エトナ火山地下で、大規模な衝撃波の発生を複数感知。奪われた核弾頭が爆発したものと思われます!」

 突然の報告に空気が凍り付く。
 恐れていた最悪の事態が、ついに動き始めたのだ
 ワルキューレはパピリオと土偶羅を連れて逆天号へ乗り込み、移動妖塞はシチリア島へ向けて異相空間に飛び込んでいった。




 突如起こった凄まじい衝撃波と地震によって火口が崩れたため、ジークは空中に避難していた。
 下方に目をやれば火口が赤く煮えたぎり、まるで眠りから覚めた生き物の様に鳴動を始めていた。

(封印の効力が弱まり始めたか……)

 主神ゼウスが施した封印を、完全に解除することは誰にも出来ない。だからこそルシエンテスは黄金の林檎を作り、テュポンにその力を取り戻させようとしている。
 まだ、この魔神が放たれる心配は無いだろう。
 この状況が、何よりも都合が良い。
 邪悪な魔導師を永久に封じる、唯一無二のチャンスなのだ。

「つくづくお前は面白い。なぜそこまでワシに食らいついてくるのか……殺す前に是非とも聞かせてもらいたいもんじゃな」

 忘れもしない声の方をジークは睨む。
 人の心を見透かしたように、そして全てを嘲笑するようなこの口調。
 全ての元凶。アシュタロスさえ仕留め損ねた不死を謳う魔導師。
 紳士の衣服に身を包んでいても、その身体から滲み出すのはどす黒く歪んだ邪悪。

「ルシエンテス……」

 ジークは自分でも驚くほど冷静に因縁の相手を見据えていた。
 手玉に取られ、利用され、敗北を喫し――ベスパを奪い去られた。
 この顔を見たら自分は理性を保てるかどうか不安にも思ったはずなのに、今は何の感情も湧いてこない。
 ――ただ、なすべき事をするのみ。
 その意志だけが、全身を支配していた。

「まずは林檎を持ってきてくれたことに感謝するぞ。さて……賢いお前さんは何か手を用意してあるはずじゃろう。見せてみよ」
「ケリを付けてやる。俺も貴様も……望みを叶えるか、塵に帰し破滅するか、ふたつにひとつだ!」

 魔剣の重みを右手に感じながら、ジークは吼えた。
 困難に立ち向かい、未来を勝ち得た者を人は英雄と呼んだ。
 運命を紡ぐのは宇宙の理かもしれないが、それを選ぶのは自分自身なのだ。
 次など無い。
 だがやれる。きっと上手くいく。
 確信にも似た思いが、強い力をみなぎらせている。

「面白い。魔神復活の前祝い、せいぜい派手に遊んでやるとしよう!」

 ルシエンテスは嘲笑し、凍てつく魔力と殺気を解き放つ。
 ついに最後の激突が始まる――
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